函館の亀ヶ岡文化

255 ~ 256 / 706ページ

三吉神社遺跡の土器(市立函館博物館蔵)

 青森県で栄えた亀ヶ岡文化は北海道にも渡って来たが、日本海沿岸や道央では、そのままの形では伝えられず、地域的な特異性を持って発達した。函館周辺では、あたかも亀ヶ岡人が渡って来たようにも思えるほどよく似た形で伝わっている。亀ヶ岡式土器が北においては夕張に発見された例もあるが、道東北では亀ヶ岡とは異なる文化があった。函館で亀ヶ岡式の土器が出土したのは住吉、函館公園付近、榎本、高丘、亀尾の各町である。住吉町と函館公園付近出土の土器は、江戸時代から明治時代に掘り出されたもので、蝦夷館山から出た壷は高さが50センチメートルもある。高丘町(旧岩船別荘香雪園の南)の遺跡は明治43年4月、馬場脩土偶を発見し、『北海道人類学会雑誌』第1号(大正8年)で話題となったこともある。香雪園の南側で沢に近い一帯が遺跡である。函館の亀ヶ岡文化の代表的なものは亀尾女名沢遺跡で、伊藤昌吉が資料を収集し、大部分が市立函館博物館に収蔵されている。昭和6年から10年までの間の収集品で、土器、石器、装身具など173点ある。女名沢の資料が収集されたころ、上磯町の落合計策が久根別や添山遺跡の縄文晩期の資料を収集して史前学研究所に送り、鑑定を依頼した。北海道縄文晩期についての報告は、この落合の資料について甲野勇が発表して「北海道上磯町発見の縄文式土器」-『史前学雑誌』4巻1号・昭和7年-が初めてである。亀尾女名沢遺跡が有名になったのは『北海道原始文化聚英』-昭和8年-、『新撰北海道史』第2巻通説1-昭和12年-に資料が載せられたころからで、河野広道、名取武光らによる北海道先史時代関係の論文には、北海道を代表する縄文晩期の資料として女名沢遺跡が挙げられるようになった。