後期古墳の時期には群集墳が盛行し、群小の族長層が台頭する。箱形石棺を有する古墳群は、群集墳になって副葬品が量的に増加する傾向を生じ、東北においては6世紀の中ごろから横穴式石室が普及して7世紀末まで作られるようになる。古墳は円墳であるが、内部の構造は横穴式石室が設けられ、玄室、前・後室に仕切られて、玄室内に何層かの埋葬が認められることもある。出土品としては金銅飾金具、金銅製刀装具、馬具などがあり、宮城県南部までが国造本記に記される国造と一致する。これら東北地方南部の古墳に対して、岩手県においてはほとんどが奈良時代に入ってからの群集古墳である。
終末期古墳の時期になると岩手・秋田・青森など東北地方北部に古墳群が造られるようになる。その中には岩手県和賀郡猫谷地(ねこやじ)古墳群のように数十基を数え、内部構造が河原石積み石室で、後期の新しい時期の古墳もある。
終末期古墳には割石あるいは河原石で竪穴式石室を造るものと、地山に墓壙を掘って埋葬し、封土を築くものがあり、古墳とはいっても直径10メートル前後の小墳である。出土品は直刀、蕨手刀(わらびてとう)、刀子、玉類などである。古墳群と共に住居址や集落が広範囲にわたって分布するが、青森県などにまで小規模ながら古墳を築造した階級が多く出現したことは注目されよう。
これまでは、東北地方北部の末期古墳の年代は奈良・平安時代と考えられてきていたが、伊藤玄三は古墳から出土する和同開珎、帯(かたい)金具によって、その年代を8世紀と考えている。すなわち、和銅開珎は和銅元(708)年に鋳造され、延暦19(800)年に廃止されている。銙帯金具は慶雲4(707)年に革帯の使用が認められ、朝服の腰帯飾り金具は延暦15(796)年に禁じられている。岩手県などの末期古墳から出土する銙帯金具は、青銅製の鋳造品で、これは衣服令の制度による規定で位階6位以下のものである。律令政治の下(もと)にあった東北地方では『続日本紀』に見られるように、蝦夷への授位、賜物が行われていたが、宝亀5(774)年になると朝貢が停止され、それ以後9世紀まで文物の交流も中断する。蝦夷に与えられた位は5位以下の下級であり、青銅製銙帯金具を用いた東北の末期古墳の被葬者は蝦夷であった可能性があるというのである。
この青銅製銙帯金具、蕨手刀、和銅開珎などは、北海道の墳墓からも出土し、末期古墳である8世紀ころから東北と北海道の関係が深まってくる。
北海道では函館の湯川遺跡や汐泊遺跡などで古墳時代終末期の住居跡が発見され、東北との交流があったことが明らかになっているが、古墳文化との関係については昭和の初めに後藤寿一、河野広道らが調査研究を進めていた。江別や恵庭に小さな墳丘を有する墳墓群があって大刀、刀子、鉄斧、蕨手刀、耳環などが出土し、これらは古墳とは異なるものであるので「北海道式古墳」または「古墳様墳墓」と呼んでいた。この中で恵庭の茂漁(もいざり)にある2号墳は、東北の末期古墳に類似し、その直径は約7メートルで大刀、刀子、銙帯金具などが副葬されていた。銙帯金具は3点出土し、青銅製が2点、金銅製1点で、その被葬者は位階6位以下で東北から渡って来た人物との見方ができる。この恵庭墳墓群は墳丘の径が5メートルほどのものなど14基が確認されているが、河野の報告によると和銅開珎と蕨手刀の共伴した例があり、8世紀に築造されていたと見ることができる。しかし、他の墳墓から出土した金属器などから平安時代に下るものもあり、北海道式古墳と呼ばれてきたそれらの年代は、8世紀から9世紀に相当すると言えよう。
東北・北海道わらび手刀分布図(石井晶国「蕨手刀」より)
北海道の蕨手刀(石井晶国「蕨手刀」より)