平安時代の東北と北海道

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 奈良時代には蝦夷征伐による武装植民の活発な動きを見せ、出羽に柵が設けられたり、政庁的な性格を持った多賀柵が設けられ、多賀柵は後に多賀城となるが、その開拓と軍政による奥羽経営は東北南部から北部へと拡大して行った。平安時代になり、延暦20(801)年には蝦夷が騒乱を起こし、多賀城にあった坂上田村麻呂が陸奥に遣わされ、胆沢城を築いて鎮守府を移した。この軍政により、城柵は岩手県から秋田県の北部に築かれて、東北蝦夷の経営は一層北に拡大された。こうした情勢の中で延暦20年の太政官符「禁断私交易狄土物事」が出されている。これは渡島狄(蝦夷)などが来朝の際に貢物として種々の毛皮などを持参するが、王臣諸家はその中から良い物だけを手に入れ、品質不良の物を進上するなどの行為をしたため、これを戒めるための制令を発布したものである。出羽国と渡島蝦夷との関係については、渡島蝦夷が出羽国の管轄下にあり、その交易は奈良時代後半から平安時代にかなり盛んであったと考えられる。また、弘仁2(810)年に渡島蝦夷が岩手県気仙郡に漂着した時、陸奥国は蝦夷に対して好意的であったことが記録にある。しかし、貞観17(875)年11月の出羽の報告では、渡島の荒狄の水軍80隻が秋田と飽海両郡の百姓21人を殺掠したのでこれを平定したことが記されており、その後も秋田城下で夷俘が暴動を起すなど、不穏な状況となる。
 奈良時代から平安時代における東北地方は、中央政権によって多賀城を始め秋田城、胆沢城その他の城柵が築造された。工人の渡来による瓦窯(がま)址などの生産遺跡も各所にあって、遺跡調査によると城柵の遺構は礎石建物であり、家屋構造も竪穴住居から掘立柱式となり、柱間などを計測するのに間・尺の法が採用されている。鉄の生産による窯の改良によって瓦窯址では土器が焼かれ、ロクロによる大量生産の土器と硬質の須恵器、墨書土器、硯(すずり)などが出土している。城柵以外に、岩手・秋田・青森各県には集落跡があって、方形の竪穴住居に窯が設けられ、煙出しの煙道がある。窯の構造は石組から粘土に変わって築かれ、遺物としてはロクロによる糸切底の土師器や須恵器が出土する。城柵以外の住居が掘立柱式の住居になるのは10世紀になってからのことである。
 平安時代の北海道においては、墳墓群や集落遺跡から糸切底の土師器や須恵器と鉄製品が発見されている。鉄製品としては直刀、刀子、袋柄鉄斧、鉄鍬先などが出土するが、これらは東北地方から渡来したもので、生産遺跡はまだ発見されていない。住居址は東北地方と同様に方形の竪穴住居で、片側に窯が設けられ、煙道が付設されているが、擦文土器を伴っていることがある。擦文土器とは、前述したように土師器の製作技術が北大式土器にとり入れられてできた、地域性をもった一種の土師器であり、器面に擦痕があるので擦文土器と呼ばれた。これは器形を調整した時の擦痕で、擦文土器の初期の器形には北大式に見られる口縁部の外反する深鉢形に横の沈線文があり、刻線文が付き、新しくなると刻線による格子目や帯状の隆帯文に馬蹄形の連続文などが付けられ、器形に高形や坏形があって、東北地方の土師器にはあまり見られない土器形式となる。年代的には東北地方の土師器が渡来した奈良時代の後半から擦文土器が出現し、室町時代に至るまで全道的に広まる。
 この時期の集落跡は、海岸の砂丘や河川流域に数十戸から数百戸の竪穴群として残っている。住居構造は、前記のように東北地方の様式と同様に方形の竪穴住居で窯があり煙道も付設されている。この時期の遺跡には奥尻島の青苗貝塚のように貝塚を伴っていることもある。青苗貝塚では鉄などの再生産に使用されたフイゴと鉄滓が出土している。道内でフイゴが発見された例は少ないが、生産技術が擦文土器の時期に導入されていたことは、畑作農耕の伝来と共に、本州文化が定着したことを意味する。