蠣崎氏の蝦夷地掌握

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 しかるに永正10年、「六月二十七日の早朝、夷狄発向し来りて、松前の大館を攻め落し、守護相原彦三郎季胤、又村上三河守政儀を生害せしむ」(『新羅之記録』)とあって、アイヌの襲撃によって滅ぼされたとするが、一説には「蠣崎光広大館を攻め、相原氏、村上氏を滅ぼす」(『福山旧事記』)というのが真相らしく、これによって蝦夷地における安東氏の係累の勢力は、全くついえ去ったのである。
 かくて翌永正11年3月、光広はその子良広(のち義広)とともに、小船180隻を率いて上ノ国から松前大館に移り、その旨を檜山の宗家安東尋季(政季の摘孫)に2回にわたり報告したが、檜山安東氏は、いわば外様の蠣崎氏にこれをゆだねることを、多分に逡巡(しゅんじゅん)したらしく、使者はともに数か月たっても帰って来なかった。そこで義広は、特に紺備後広長という浪人を選んで、檜山に使いをさせてようやくその目的を果たした。この時尋季は、はじめて義広の書状を被見し、使者の口上を聞き、蝦夷島を蠣崎氏にあずけ、よろしく国内を守護すべき旨の書を下したという(『能代市史稿』)。以来、蠣崎氏は諸国から大館に来る商船・旅人の運上の過半を檜山に納め、主従の義を失なわなかったといい、また紺備後はその功によって、役取人(収税吏)に任じられ、一門に準ずる待遇を受けるに至った(『新羅之記録』)。