場所請負制度の発生については、前述のように、松前藩が、再生産構造の特殊性から、家臣の知行形態として、いわゆる商場(あきないば)(場所)知行制をとったことに起因する。商場知行制とは、その名のごとく家臣に蔵入地以外の蝦夷地および和人地に、給地に相当する商場を分与する制度である。従って形の上では本州諸藩の地方知行制と非常に類似しているが、その知行権の内容は極めて特異なものになっている。すなわち、和人地の給地にあっては、給地内の漁民から物成としての現物税を徴収する権利を有し、その限りにおいては地方知行と類似しているが、和人地は藩主の蔵入地が圧倒的に多く、家臣の知行地としては、まことに例外的なものであった。
それがため、家臣の知行地の大部分は蝦夷地にあったが、その場合でも知行地である場所においては、採金はもとより、鷹待、鮭鱒漁、伐木などの権利は、すべて領主に属していたばかりか、給人交易も自ら商船を仕立てて交易することをわずかに年1回普通夏船1艘に制限され、許されているに過ぎなかった。しかも本州商人の資本力の進出、ことに近江商人が松前に出店をおいてその実力を発揮しはじめると、知行主の多くは、交易に要する物質はもちろん、1年の総入用まで商人から借りて交易に従事し、それによって得た品物を商人に渡して償うようになった。ことに蝦夷地の交易がしだいに複雑化し、資本的にも、技術的にも、武士の手には負えなくなったのみか、生活の向上などもあって、漸次に負債が嵩(かさ)み、やがてはその償還に窮して、場所講負人の名目をもって交易権まで商人の手にゆだね、一定の運上金を得るという、いわゆる場所請負制度が発生したのである。