文芸

413 ~ 414 / 706ページ

汐干塚

 延享5(1748)年に箱館問屋株仲間を許されていた、榊家(角屋)の3代伝四郎雄春は、風雅で詩文をよくした。その父、太郎右衛門雄明もまた同様であった(両人共医術にも通じていたという)。このように江戸中期には、土地の人々の間に文芸をたしなむ風習も生れていた。
 称名寺境内に現存している芭蕉の汐干塚といわれる句碑には、「安永二年春三月□日 村山□□□建之」の銘があり、「青柳の泥にしたるる汐干哉」の芭蕉の句が刻まれている。句は、芭蕉門人ら編の『炭俵』にある上巳の句だから、3月3日に建てられたものらしい。安永2年は、芭蕉死してより80年目に当るから、同好の士が称名寺に集い、追善句会などを修し、当時箱館湾内の汐干狩を遠望できた同寺境内に、この句碑を建てたものであろう。
 銘の村山とは、村山利兵衛のことである。利兵衛は、松前の場所請負人である村山家の女婿で、5代目を継いだ人という。彼は、越前敦賀から入婿し、病気のため敦賀に帰ったといわれる。
 いずれにしても、安永の当時、土地の人々を勧誘しての文芸活動が行われたことは注目される。