高田屋の登用

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アトイヤの標柱

 なお、この間、特記されるべきことは、淡路の船頭高田屋嘉兵衛の登用である。嘉兵衛は船子より身を起こして後船主となり、広く海運に従事していたが、寛政11年蝦夷地のことに当っていた幕府勘定役高橋三平重賢に見出され、蝦夷地の御用を勤めることになったのである。翌年幕府は択捉島の経営に当ることになり、その航路の開発を嘉兵衛に命じた。当時わが商船の航路は国後島まで延びていたが、国後択捉間は和船の往来はなく、ただアイヌが日和を待って小船で往復するだけであった。嘉兵衛はまず、国後の北端アトイヤの高所に登り、波浪の順逆を調べ、丸木舟を浮かべて潮流の緩急をはかること20日、ついに同12年7月18日、70石積の船をもって択捉島に渡ることに成功した。嘉兵衛が抜群の航海者たることが知られたのもこの時で、その功により特命をもって択捉場所の開発を命じられ、箱館の巨商となる要因となった。