かくて同年10月10日戸川安論は福山に移って政務を執った。同月24日幕府は箱館奉行を改めて松前奉行となし、小納戸頭兼勘定吟味方河尻甚五郎春之、勘定吟味役村垣定行の2人を松前奉行に任じ、戸川安論と羽太正養も改めて松前奉行に任じて政庁を松前城に移した。箱館は幕府直轄後、政治・経済の中心地となったので急速に繁栄し、政庁の所在地としては地理港湾等の上からも福山よりはるかにすぐれているにもかかわらず、これを福山に移したのは、一つには城があって警備に都合よかったことと、古くから本道の政治・経済の中心地として栄えてきたことによるものであろう。また奉行を4人にしたことはロシア船の暴挙があって、政務多端を極めたため臨時増員をしたらしい。
この年11月18日正養は露寇の責めを受けて奉行を免じ、逼塞を命じられ、(翌5年4月逼塞被免)、12月先手鉄砲頭荒尾但馬守成章がこれに代わった。更に安論も5年4月職を免じ、差控えを命じられた。(5月差控被免)。