また、大坂方面との交易は、早くから昆布の移出が盛んに行われていたが、この時代に入ると、昆布だけではなく塩魚、乾魚および魚肥などの移出も増加してきた。これは蝦夷地各場所の漁場における生産が上昇してきたことにもよるが、そのため従来大坂では、干鰯商仲間が松前物を取扱っていたが、この期にはその取扱量が極めて増大したため、仲間同志の矛盾も激化し、文化3(1806)年その取締りについて協議し、同8年松前行司3名を置き、文政2(1819)年には、松前物最寄組なる仲買組織と、松前問屋なる問屋組織をつくるに至った。