松前藩復領後の場所経営は、前章に述べたように、場所を分割して藩主直領地とか、または家臣知行地という松前藩独特の家臣団統制の政策を廃止し、全蝦夷地を藩の直轄地に再編成し、領主権力による統一的な場所支配が行われた。そのため場所請負人にあっても、箱館商人のカは弱く、西蝦夷地の請負人のすべてを松前城下居住の商人によって占められ、東蝦夷地にあっても、その多くを松前居住商人が請負うことによって、場所産物の多くは松前に集荷され、箱館港への集荷はますます減少していった。たとえば文政年間の東蝦夷地の請負に当った箱館商人とその場所をみると、次の通りである。
東蝦夷地20場所の内箱館商人の請負場所は、その半数の10場所に過ぎなかった。しかも天保4(1833)年高田屋の没落後は、根室、択捉の大場所は福山の藤野喜兵衛の請負となり、天保年間の箱館商人の請負場所は有珠、新冠、三石、幌泉、十勝の5場所だけとなった。加えて東蝦夷地の漁況の不振もあって箱館の経済力は一層の低下を示した。