この一連の事件の裏面には、松前藩のかげの動きもあったようである。さきに天保元年、松前藩が高田屋に1万両の御用金調達を命じ、高田屋がこれを上納すると、翌年正月更に1万両の調達を命じたことがあった。このときは高田屋も5千両より調達することができず、残りは江戸、松前、箱館の問屋から借入れ、ようやく上納した。
ところが、旗合せ取調べの任に当り、かつ、高田屋に理解のあった村垣定行が病気となって職を辞するや、松前藩は、御用金調達の際に金兵衛が奔走したにもかかわらず、老中水野忠成に対し、内々に、「金兵衛身分悪事なるべき事を飾り立て、或は松前候御用金の内、松前、江戸問屋共に示談に及び候事をも、金兵衛運上を取り立て候などと、種々悪名ヶ条を以って申し立て」(『松前秘説』)て、そのことを逆にとり上げ、高田屋が問屋から運上金を取り立てていると誹謗した。
松前藩は、財政の窮迫によって、有力商人からしばしば御用金を借上げた。そして借財がかさむと、僅かな過失を理由として取つぶしてしまうというやり方は、寛政2(1790)年の飛騨屋久兵衛を始めとし、同8年に村山伝兵衛、そして高田屋金兵衛に至る常套手段であったのである。
なお、金兵衛についての松前藩のこの申立ては、幕府の調査により、事実無根であることが確認された。