その他、箱館近海から噴火湾だけにみても、天保3年7月21日、椴法華沖に現われたのをはじめとし、同5年6月2日には津軽海峡の西に現われ、龍飛岬砲台がこれを撃退、船がそれを避けて福山に近づくと、福山の諸砲台ならびに白神砲台が火ぶたを切り、市中は混乱を極めた。13日(15日ともいう)にも福山沖に来たので、前日同様にこれを撃ち払い、翌日汐首岬付近でも発砲して退散させた。ことに弘化元(1844)年のごときは、5月5日、同21日、同23日、10月5日の4回にわたって室蘭に来泊している。また、同4年3月、3本檣の異国船が知内沖に現われ、上陸したがまもなく退去し、翌月には福島沖にも現われた。同年5月19日、南部の商船が津軽海峡を航行中外国船にあい、その船に救助されていた漂流民9人の送還を依頼されるという事件もあったが、これは前年大坂から北上中暴風にあって漂流中、ドイツの捕鯨船に救助され送られてきた者であった。
しかも嘉永元(1848)年になると、津軽海峡を通過する異国船の数はいよいよ多くなり、藩士木村源吉の日記によると、異国船通航の報は同年8回、翌2年には14回とその頻度を加え、この年8月28日には、箱館山背泊の穴澗にも碇泊するという騒ぎを起こしている。