松前藩への通達

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 日米和親条約を締結すると、ペリーは開港に先立って下田・箱館両港の視察を申し出た。慕府はこれを許したが、当時、箱館は再直轄前で、まだ松前藩領であったので、林大学頭らは松前藩主崇広にその旨を通告し、海防掛勘定奉行からは松前藩老に対し、次のような心得方を達した。
 
     御達書
 亜墨利加食料薪水等闕乏の品、下田、箱館にて相願候為め、箱館湊船懸等の様子見置くため罷越候儀に付、測量等致し候とも相制し候に及ばず候事。
一 今度湊え渡来の節、食料薪水等相願候はば、相応に相与へ、右代品差出候とも一と通り相断り、請取らざる方に候得共、謝物のため強て差出度き旨申出候はば、当否に拘らず請置候儀は苦しからず候。尤食料等遣し候品並に謝義として異人より差出候品共、委細書面を以て申立、追て其品をも江戸え相廻し、差出候様致さる可き事。
一 上陸は致さざる筈に候得共、上陸の程も計難く、余り猥りの義も候はば、通詞を以て隠便に申断り申す可き事。
一 其節若し地所借受其外の儀申出候とも、都て伊豆守より江戸表え伺の上ならでは、何れととも挨拶及び難き旨申断り申す可き事。
一 右船渡来中の始末、洩れざる様相認め、日記をも相添、退帆後委細申立つ可く候事。

 
 松前藩江戸藩邸からの通報と、右の達書を受けた国元福山の驚きはひとかたならず、その応接掛として家老松前勘解由、用人遠藤又左衛門以下属吏数人、その警備として番頭(ばんがしら)佐藤大庫以下一隊の兵を箱館に派遣した。3月22日勘解由らは箱館に着き、4月5日箱館市在の住民に対し、次のような米艦渡来の際の心得を布達し、諸種の準備を撃えたのである。