松前藩の回答書

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 4月23日、前日の接見における約定により、文書による回答を受取るため、提督副官べンテ、通訳官ウイリアムズらが来たのは午前9時ごろであった。これに対し遠藤又左衛門石塚官蔵が応接し、その回答書を提出した。その内容は次のようなものであった。
 
(前略)昨日貴下等は吾々と友交関係を維持せんことにつき語られたり。而してそのうちには、両者共に相互に権利を守る義務、親愛の惜を害することを行わざるべき義務を包含さるるや確実なり。余等はまぬかれ得ざる主要任務として、公共の建物を監視し、人民を支配するためにこの地に配置され居るなり。而して貴下らの欲するが如く建物を提供するは、貴下らにとりて快きことなりとも、その結果は吾々にとって甚だ重く且つ大にして、人民は何人を支配者と見るべきかを殆んど知らざるに至らん。もし貴下らが、かかるまでにこのことを強制し、三軒の家屋を強請するとせば、貴下らの友交的声明に相反することにならざるか。
昨日貴下等が交誼に関するいくつかの細目を明らかにしたが、即ち三月三十一日横浜において、両国高官との間に一条約が締結され、それに基づいて下田においてなされたと同様、通商や休息、絵画を作成するための家屋三軒を入手することを実現するため、箱館に来りしことを説明せり。
横浜にて条約締結されたる後、それについて何等の命令も文書もなく、また貴下が浦賀からもたらした余等への通牒については、余等がいま初めて貴下等自身より知りたるもので、これらの点につき何等の証明も説明していないことは、余等の大いに不審とするところであり、しかも朝廷より何の指令を受けざる前に自ら行動を起すことは、甚だ重大なる事と断言すべきである。何ぜならば、わが封領全体に亘(わた)って苟(いやし)くもせざる慣例によれば、先ずその命令を待つべきで、余等がそれを犯す得べきことにあらず、問題の重要と否とを問わず、事国家に関することは藩公に照介し、藩公はこれを朝廷に具申し特別な命令を受けたる後に行動すべきである。貴下等は横浜および下田においてのあらゆる経験に徴し、右の如きこの国の慣例ならびに法律なることを知り居るに相違なし。されど余等が持ち居る食料品、即ち卵・鶏・鰊魚・鴨その他の商品は、たとえそれが下等品であっても、当座の供給に応じ、同様に郊外への散策、村や市場や店舗への立寄りを認めるなど、貴下等の希望する要求も許容しているではないか。云々、(『ペルリ提督日本遠征記』)

 
このなかで、松前藩が問題としているのは、アメリカ側が、3軒の家屋を要求したことであった。
 そこで副官らは問題となっている建物について熟談の結果、この家屋の要求については、それは漢文が使われているため、官邸や役所の意味に受取った誤解によるものであることがわかった。副官らは、提督の要望が一般の宿者に与えられている寺院の一部を、当座の休息場として使用することを希望するだけであり、宗教上の設備を占有するものではなく、また、国民的信仰を妨げる意図のないことを明らかにしたので、日本側は、ようやく了解し安堵した。そして遠藤又左衛門から後刻松前藩公の一族である高官、松前勘解由が提督を訪問する意向を伝えたので、アメリカ副官らは別れを告げて帰艦した。