外人の居留問題

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 安政2年4月アメリカ人リードおよびドーデーの2人が、婦人、小児を伴って箱館に来た。その目的は箱館に在留して、入港のアメリカ船に対し、わが国では得難い必需品を供給するためであったという。それ以前(同年2月)リードらは前記の目的で下田港に来たのであるが、乗っていた船がそこで難破したために滞留中であったロシア人(プチャーチンの部下)を、彼の乗船で送還することになり、強制的に上陸させられ、しかたなく一時下田港に上陸して滞在した。和親条約第4条には「漂着或は渡来の人民取扱の儀は、他国同様緩優にこれあり、閉籠候儀致間敷」とあるのを、わが国はこれを狭義に解釈して、在留のために来た者は含まないというので退去を迫り、彼は広義に解釈し在留することができるものと抗弁して譲らなかった。しかし彼らの目的は下田ではなかったので、まもなく去って箱館に来航し、箱館奉行に向かって上陸滞在したいと申し出て、また同地に入港中のアメリカ軍艦ヴィンセンズ艦長ロジャースも彼のために6月間の滞留と、条約第7条によるという商業権の承認を請求し、もし聞かれなければ本国から軍艦を派遣しても要求を貫徹すると威嚇した。箱館奉行はその要求を拒絶したいと思ったが将来を考え、実状を幕府に訴え、その指揮を仰いだところ、幕府でも条約文の解釈について議論が起こり、オランダ訳、漢訳などと対照してみたところ、アメリカ人のいうことが絶対に無理だとすることができない不備な点もあり、6月ついにアメリカ官吏の渡来を待って協議することにした。しかし決定を待たずにリードらは5月半ばに退去した。しかるに同6月フランス軍艦が入港し、入港中のイギリス軍艦を通じて船中病人が多数いるため、上陸して養生したいと申出たので、箱館奉行は、フランス国はいまだ条約を締結していなかったが、こと人命に関することなので特に許し、実行寺で滞留療養させた。後またイギリス軍艦の病人にも許したが、これはさきにペトロパウロフスクを砲撃して傷ついた英仏連合艦隊の兵員で、その後数十日引続いて交替に滞留した。こうして例外ではあるが、外国人の上陸滞在が許されたわけで、翌3年アメリカ国領事ハリスが下田に来て会談した結果、アメリカ人の在留が許されることとなり、続いて各条約国にも許されることになった。