米国官吏ライスの在留

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 安政4年4月5日、アメリカ貿易事務官ライスが、鯨猟船に便乗して箱館に来港し、6日上陸して堀奉行に面会し、大統領の書簡を提出して在留することを告げたので、浄玄寺別堂の一部を仕切って、これを宿所にあてた。1人で止宿して病気その他の不慮のことがあっては迷惑だから、水夫をとどめて置くよう諭したが、彼はほかのアメリカ船がまもなく入港するから1人で差支えがないと答えたので、奉行はその旨を書面で差出させ、自由にさせることにした。彼は携えてきた農作物の種子を奉行に贈り、雌牛を請い受けて搾乳を試み、奉行所の馬場で馬を乗り回しその妙技を見せ、さきに自国漂流民の残したバッティラ(短艇)をもらって港内を乗り回し、豚を屠(ほふ)ってその肉を奉行はじめ応接掛の人々に分配し、道で足軽小頭鈴木三右衛門が足を痛めているのを見てこれを治療し、また馬を借りて駒ヶ岳に登りたいと願い出て(遊歩区域外につき許されず)、更に奉行所に内談して山の上町遊女屋丈吉方の妓、玉という女を仕度金5両、年給130両で雇って妾とした。彼は極めて庶民的で、商人などに対して威厳を装わないなど、天真爛慢でアメリカ人の本領を遺憾なく発揮したため、ある者は敬服し、ある者は嫌忌した。敬服された一面としては、欧米文化の紹介者としてであって、奉行は通辞を遣わして綿羊の飼育法を問わせ、武田斐三郎は彼について英語の疑義を正したことなどがあり、嫌忌された一つの現われは、足軽若山蕃ほか1名が酔って彼の宿所を訪ね、口論の末抜刀し、そのため職を追われた事件などがある。よかれあしかれ、彼の在留は箱館官民に少なからぬ影響を与え、安政6年の開港準備にあずかって力のあったことは否定できない。