一方、この時代になると、問屋・小宿以外の商人の進出もみられるようになる。なかでも弁天町の米屋(国領)平七などは手広く営業しており、この人は近江の人で、文政元(1818)年箱館に移り、しだいに業務を拡張し、呉服太物その他種々の雑貨を売買していた。このほか各地の商人らも多く来て開店し、諸藩の中でも産物を売広めるために箱館に開店する者もあった。すなわち、佐賀藩などでは伊万里の陶器を販売するため、万延元年藩士武富平作を箱館に遣わして陶器店を開かせたが、そのころ専業の陶器店がなかったので売行きはなはだよく、後にこの店は平作の個人経営に移り、開拓使時代まで続いた。このほか越前大野藩では、藩士内山隆佐の計画で弁天町に店を置き、藩船大野丸で呉服太物雑貨類を積み来り販売していたが、この店は後に六兵衛なる者が譲り受けて営業した。