畑作

654 / 706ページ
 一方、畑作においてこの時代に注目されることは、開港によって外国船に薪水や食料を供給するようになると、外国人は多く牛とともに馬鈴薯を所望するので、箱館奉行御手作場の農民にこれを耕作させるとともに、安政4年4月、今後年々馬鈴薯を買い上げるから、なるべく多く作るよう通達するところがあった。
 それがため馬鈴薯の価格は一躍丁3~4倍に騰貴し、栽培する者も急激に増加した。ところが外国人はその自由取引を望んでやまないので、同6年11月官ではその買上げをやめ、運上所手代左兵衛外4名に命じてこれを売り捌かせ、同時に農民も随意に販売することを許した。そして馬鈴薯の耕作者に対しては、官吏が出張して作況を調べ、収穫の2割を冥加として上納させた。
 ところが耕作者が増え、生産が増加すると価格が暴落したので、これを原料として切干や澱粉の製造、あるいは焼酎の醸造などを企てる者が生じた。切干は官において数か所に製造所を設け、房州勝山出身の新兵衛に資本金を貸与して1俵につき銭180文の工賃で製造させ、澱粉は亀田の住民栄治が出願し、資本金の貸付けを受けて亀田、上山の水車でこれを製造したが、この2種はこのほか斎藤三平山形屋八十八なども製造に当たった。また焼酎は文久元年尻沢辺御用畑の農民兵吉に命じ、資本金を貸与して製造させたが、成績は思わしくなく、翌2年7月に中止している。