官は養蚕を奨励するとともに、機織の業も起こした。安政4年箱館大町に機織場を設け、上野国伊勢崎から工女を呼んでこれに当たらせ、機三組をもって業務を開始した(この工場は文久2年に廃された)。次いで御雇新井小一郎が大野村に機織場を設け、工女18名に担当させ、織り方を付近農家の子女にも教えさせた。原料は初め伊勢崎から糸を取り寄せてこれを使い、のち当地産の繭や生糸が生産されるとこれを買い上げ、なお不足の分は奥州から買い入れた。製品は絹紬(きぬつむぎ)、縮緬(ちりめん)などで、なかでも八丈縮緬は好評であり、また藤山郷の水田で黒八丈を染めるのに適した泥土を見出したので、郡内織(ぐんないおり)、魚子織(ななこおり)などとともにこれらも製した。産額は文久2年ころには1か年2,000反内外で、これを産物会所付属の用達に命じて販売させ、また将軍家奥向用として納入した。