「斧柄社」の出現によって、箱館の俳壇がにぎわったことは前述したが、万延のころ江戸の俳人卓朗の門下で、孤山堂無外も箱館に来ている。彼は常陸国茨城郡の人で、卓朗の門に入って頭角をあらわし、蚊雷庵を継ぎ、脇宗匠を許された。たまたま卓朗門下に思楽(本名・多湖九郎兵衛)がおり、これが箱館奉行用達島屋の支配人であったため、奥州や蝦夷地の俳界を知り、無外は箱館、江差の俳人を歴訪する旅に出た。当時箱館には大非居葱玉(建築請負業中川伊兵衛)がいた。無外は松前、箱館、江差と巡り、ついに江差で大塩平八郎と関係のある女性と結婚して大塩姓を称した。慶応元年卓朗の跡を継いで孤山堂を称し、明治になって函館に移住している。