医師

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 松前藩士らのためには、藩の御抱医師などもあったらしいが、一般庶民は神仏に祈り、加持祈祷に頼るほかなく、流行病などは自然の終息を待つばかりであった。箱館八幡宮の末社八郎大明神は、疱瘡が流行した時に、官から祈祷を命じられている。こうしたなかに町人にも榊家(箱館問屋)の2代雄明、3代雄春らのように医術に通じた者もあったが、やはり本職の医師が期待され、旅医者などは尊重された。元朔の記録によると、当時の箱館の町医者として、白鳥喬庵下山仙安(仙庵)の名が出てくる。文化5年の『御触書御仕方人別帳』には、7戸の医師がいたことが記録されているが、その氏名はわからない。そのほか弘化年中には柏倉忠粛箱館に来て開業している。町医師に対して官雇医師もいたが、文化年間にはその1人として、下総銚子の人で前田温卿(『氈裘文筌』の著者)が、蝦夷地を回り、箱館にも寄っている。また蝦夷地の警備に任じた各藩の陣屋詰の医師もいたらしい。