アメリカ大統領の親書

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 嘉永6(1853)年6月9日、ペリーは、浦賀の久里浜に急設された応接所で、浦賀奉行に「日本皇帝」(将軍)宛のフィルモア大統領の親書を提出したが、同親書には、アメリカ西部のオレゴン準州とカリフォルニア州は日本の対岸にあり、「わが国の蒸気船舶は、カリフォルニアから日本へは一八日間で行くことができる」との文言の他に、ペリーを日本へ派遣した目的として、(1)日米両国の「利益」のため両国間における自由貿易を許可すること、ただし、もし日本が「外国貿易を禁止している古来の諸法律を廃止すること」が安全でないと判断した場合には、5年ないし10年間試験的に実施し、「利益」がないことが判れば、「古来の諸法律」に復することができること、(2)「わが国の船舶は毎年カリフォルニアからシナへと通過しており」、しかも、多数のアメリカ人が「日本近海で捕鯨業を営んでいる」ので、難破船員を「親切に待遇」し、彼等の財産を保護すること、(3)「わが国の蒸気船舶は、大洋を横断するのに大量の石炭を焚」くが、石炭を「全航路にわたりアメリカからもって行くこと」は不便なので、「わが国の蒸気船舶やその他の船舶が日本に停して、石炭、食料及び水の補給を受けること」を許可すること、またそのための船舶の停港として、「帝国南部の地」に「一港」を指定すること、などが記されていた(ピノオ編・金井圓訳『ペリー日本遠征日記』付録A、以下『遠征日記』と略す)。
 つまり大統領の親書は、文章は丁重な表現になっているものの、アメリカは日本の対岸にあり、しかも対岸のカリフォルニアから日本へは蒸気船で僅か18日で行けると記していることからも窺えるように、アメリカの軍事力を誇示しつつ(ペリーの率いる巨大な4艘の軍艦は、まさにそのシンボルとして機能した)、日米両国間の自由貿易、難破船員の人道的取扱いとその財産の保護、船舶に対する石炭・食料・水の供給とそのための一港の開港を日本に強く要求したものであった。しかも大統領の信任状には、日本の全権と交渉し、両国間における友好・通商及び航海の協約または条約を締結する全権をペリーに付与する旨記されていたのである(『遠征日記』)。
 こうした事態の発生が幕府のみならず、当時の日本の社会全体にはかりしれない程の大きなショックを与えたことはいうまでもない。ただ開港場とのかかわりでいえば、この段階では、日本「南部の地」に1港を要求したのみで、具体的地名は未だ何一つ示されていなかった点は注目されてよい。これには色々な理由があるが、その最大の理由は、当時アメリカ側(ぺリー)は、日本の諸港湾に関する詳細な情報を未だ持っていなかったこと、さらに久里浜での会見は、ペリーの巨大な4艘の軍艦(内2艘が蒸気船のフリゲート艦)を背景にした強い要求により、幕府がやむなく大統領の親書を受取るのみという条件付きでペリーの要求を一部呑む形で実現したものであり、そのため日米両国全権の会見とはいっても、単に大統領の親書他2、3の文書の授受を行なったのみで、外交上の具体的な交渉は何一つ行なわれなかったこと、しかし、この会見が双方とも「目礼計ニて、一言も不相交、直に退散」(『幕外』1-121)するような会見だったにせよ、アメリカがその「力においても影響力においても日本にまさっていること」を日本に認識させ、従来の日本の対外関係のあり方を打破して、長崎ではなく江戸湾で日本の「最高の地位にある高官」(内実は戸田氏栄、井戸弘道の両浦賀奉行)と正式に会見し、大統領の親書を直接手渡すことができただけでなく、江戸湾内の測量をもすることができ、これにより以後日本と懸案事項を交渉するための有力な足掛りを築くことができたという点でペリーの所期の目的は達成されたこと(『遠征日記』)、の3点にあったようである。
 こうしたこともあって、ペリーは、会見当日、大統領の親書に対する幕府の回答書の受領と懸案事項を協議するため、明年3月再度艦隊を率いて江戸湾に渡来する旨の将軍宛書簡(『幕外』1-28)を提出し、日本の全権より大統領親書の受領書を受けとったあと、翌10日、旗艦サスケハナ号からミシシッピー号(ともに巨大なフリゲート艦)に移乗して浦賀より20(または10)マイル北上し、江戸より7マイル以内の海上まで迫るという大デモンストレーションを行なったうえで、6月12日4艘の軍艦を率いて浦賀を出帆し、琉球(那覇)に向った(ホークス編、土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』、以下『遠征記』と略す。『遠征日記』)。