松前藩の対応と松平乗全

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 3月22日、まず応接役の家老松前勘解由箱館に到着し、3月26日には、箱館付近の台場をはじめ港内及び海岸筋をくまなく調査した。「亜墨利加一条写」は、この時の様子を「豆州下田湊江アメリカ共乗廻リ、夫より御当所江相廻候趣ニ付、三月廿二日、御家老松勘解由様乗切同様ニ而当所江御着ニ相成、外御役人様六七人参リ候得共、御名前不存、同月廿六日御台場不残御見分、其後澗之内橋舟ニ而浜手石垣ニ至迄御念被入、築嶋舛形外まて御見分、夫より陸御馬にて御役所へ御帰りニ相成」と記している。家老松前勘解由を始めとする松前藩士たちの緊張した様子を窺い知ることができる、それから2日後の3月28日、アメリカ船の箱館渡来とその際の一般市民の心構え等を記したお触(先に記した触書)が箱館市中及び海岸の村々に出された(「御触書写」)。
 その内容は大略次のようなものであった。(1)神奈川沖へ渡来のアメリカ船が箱館港へ行く旨幕府より知らせがあった。上陸は禁止する旨伝えてはあるが、下田の例からみて、当港へ渡来した際も上陸するやもしれないので、もし上陸するような様子をみたならば、市中の各家は残らず戸口を〆切り、米・酒の売物は勿論、目立つ品物は残らず隠し置き、食物等は見えないようにすること。もし食物他の品物を相手の要求により与えた際、相手が答礼として品物を出してもなるだけ受取らないようにし、強いて差し出したならば、それを受け取り、早急に町役所へ差し出すこと。(2)「異人共」は、ことのほか婦人に関心をもっいるので、市中端々の婦人たちは、海岸を隔てた町々か、もよりの「山付村々」に知縁ある者はなるだけその地に引っ越すこと。市中は婦人も多いので、全員「山付村々」へ引っ越すことはできないであろうから、蔵に入れて隠しおき、滞船中は異人の目に触れないようにすること。
 右の触は、先の海防掛勘定奉行石河政平の達書(『幕外』5-257)を踏まえたものであることは疑いないが、その内容や文章表現のあり方からみて、さらに3月12日、老中松平乗全が江戸留守居嶋田興を介して松前藩に与えたアメリカ船への対応方法に関する指示事項に大きく依拠したものであったこともこれまた否定できないようである。嶋田興の「覚」によれば松平乗全の指示事項の特徴は、下田では上陸を禁止したにもかかわらず上陸して「百姓家等へ罷越、食物其外ノ品ニテモ無心」し、しかも「アメリカ人ハ至テ短気ニテ、少々サカラヒ候テモ直ニ腹立」すること、「寺院等罷越候ヘハ、殊ノ外致長座」すこと、「子供ハ殊ノ外愛シ、菓子等モ相与」えること、「如何ノ事ナカラ婦人ヲ目掛」ることなど下田での具体的事例を示した上で、箱館においてもこれらの点に留意して対応するよう指示しつつ、しかも、今回幕府が何事も「穏便」に取りはからうように指示した「御内実」は、「数百年太平ニ馴レ候人民戦場ノ実地不心得、其上諸国ノ海岸御備等モ御行届ト申ニモ無之、左候得ハ、急度御勝利共難之、御勝ニ候共、彼等舩自在ナレハ、忽(チ)䑺去何レエ罷越候共難計、左候ヘハ人命ヲ損シ候斗ニテ、誠ニ以テ歎敷次第被思召」たところにあることを「極内々」に知らせたところにあった(「北門史綱」巻之1、「亜墨利加一条写」)
 この「覚」が藩庁に到着した正確な日付は定かでないが、アメリカ船がいよいよ箱館へ向う旨を記した3月13日の松前氏家来宛老中松平伊賀守忠優達(『幕外』5-292)、及び普請役井上富左右・辻嘉右衛門を箱館へ派遣する旨を記した同日の松前氏家来宛石河政平達(『幕外』5-293)を松前藩庁が領内に布達したのは3月27日であること(「北門史綱」巻之1)や、先にみたように当時江戸-松前間の急便に要した日数は11~14日であることからして、3月26日頃までには到着していたものと推察される。3月26日、藩庁が急遽城下の徳山神宮宮司に異国船退散の祈祷を命じているのも(「白鳥氏日記」13)、右のような動向と関係していたものとみてよいだろう。
 ともかく以上のように、3月28日に出された触は、松前藩庁がアメリカ船の渡来先が箱館であるとの正式な情報を入手して以来日も浅く、しかも情報不足のまま対応しなければならないとあって、その内容もいきおい幕閣の公私両種の指示をそのまま伝えるようなものとならざるを得なかったものの、それでも、少々具体的な対応策をもりこめたのは、老中松平乗全の私的な指示があったからであった。この点で、この期の松前藩の対アメリカ船対策に果たした松平乗全の役割は、すこぶる大きかったといわなければならない。しかし、箱館の住民にしてみれば、これによってアメリカ船の箱館渡来を初めて知らされただけにその動揺も大きく、しかも翌3月29日番頭佐藤秀忠・旗奉行近藤武明・目付高橋安光等の1隊約70余名が藩船吉祥丸で箱館に到着するに至って(「北門史綱」巻之1、「亜墨利加一条写」)、住民の不安はますますつのるばかりであった。