街の目隠し

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海岸の図 『ペルリ提督日本遠征日記』より 海岸にはりめぐらされた板塀の様子がわかる

 なおこの間松前藩は、山背泊から町端の桝形に至る海岸に板塀をはりめぐらす作業と市中町境及び横町入口に新たに塀門(木戸)を設ける作業を行っていた。これについて「箱館表風説書」(『松前箱館雑記』1、東史蔵)は、「箱館表江異国舩四月十四五日頃ニ者着舩ニ可相成旨前広咄合有之、諸手配向十二日迄ニ出来栄候厳達ニ而、入口山背泊と申所より町端升形辺迄海上より市中見通又者上陸不相成様一面ニ高サ七八尺ニ板塀相建、沖ノ口前并秋田屋と申町家之前而已明ケ置、其外所々通口者小門補理、内より懸金ニ而〆置申候、市中町境、是迄木戸無之処、頓而塀門処々江相建、横町入口之分同断、中ニ者囲切々ニ(ママ)いたし候所も有之」と記している。また、これらの作業は、「木品并釘類持合無之候族者、町御役所より書付相渡し、普請場へ被持遣し、夫々木品・釘類受候、当時不如意ニ而浜手囲方不相成廉者、御上様御普請ニ候間、アメリカ舟退帆之後願受、木品其儘ニ被下ニ相成」(「亜墨利加一条写」)とあることからも窺えるように、市中の職人を総動員し、しかも財政難から一時その経費を彼等に負担させて行ったのであった。高さ約2メートルの浜手板塀は4月15日に漸く完成したが(同前)、こうした板塀による街の目隠しが、アメリカ人の海岸から市中への自由な上陸を阻止する上でそれなりの役割を果たしたことは確かとしても、箱館市街の地理的特性や後述のような米艦の巨大さからして、ペリーの上陸以前にあってさえも、海上から市中を見通すことを防ぐという所期の目的をどれほど果たし得たのかは甚だ疑わしく、むしろこの点では全く機能しなかったといってよい。ましてや、ペリーはいうまでもなく、多くの船員たちが市中を徘徊するにいたっておやである。したがって、市中の木戸は別として、この板塀は、松前藩のペリー艦隊の実態に対する認識の甘さを象徴するようなものであったといっても過言ではない。