次にイギリス船の要求にかかわる問題についてみておきたい。先にみたように、箱館開港直後の入港外国船のうち、イギリス船にあっては、クリミヤ戦争とのかかわりから、その総てが軍艦であった。それだけに、イギリス船の要求内容は、アメリカ船、特にアメリカ商船のそれとは著しく異なっていた。その最大の特徴は、牛肉ないしは牛の供給を執拗に要求したことである。安政2~3年に入港したイギリス船(軍艦)は13艘を数えたが、シビル号を初め多くのイギリス軍艦が入港の度毎に牛肉ないしは牛の供給を要求した。これに対し箱館奉行は、当初、日本では牛馬の肉を食する風習がないとして、その供給を拒否したが(『幕外』10-24・190、11-36他)、シビル号が日英和親条約第1条に「長崎・箱館の両港を英国船修復、薪水食料其外都て船中必需の貯品を供せん為め開くへし」とあることを示しつつ、牛はイギリス人にとっては食料第一の品であり、しかも牛肉の欠乏のため、病人が続出しているので、「病人薬用之為」にも是非牛肉を供給してくれるよう強く要望したこと(『幕外』12-76)もあって、箱館奉行竹内は彼等の要求を拒否しつづけにくくなり、ついに安政2年7月、老中に対し次のような要望書を提出するに至った(同前)。
すなわち、シビル号の件を記した上で、イギリス軍艦のみならずアメリカ軍艦も入港の度毎に牛を懇望し、しかも、先般イギリス軍艦ウィンチェスター号(イギリス軍艦司令長官スターリング乗艦)も、牛購入の件を江戸へ伺いの上許可してもらいたい旨願ったこと、「牛は万国共食糧第一、且航海中別而薬用之品」故、今後彼等は生命において「人と牛との軽重差之論」をもちだすやもしれず、それを拒否すれば、箱館近郊の地を借用し、自国より牛を輸送し、飼育することを要求してくる可能性もあること、もっともイギリス人は、「毎事陽に恭謹を顕し、陰ニ随意を希望仕候故」、こうした要求はしてこないであろうが、アメリカ人は、「大半直情径行を旨といたし、且自国之強盛ニ誇慢仕候習癖」があるので、右のようなことを主張してくることが充分ありうること、また、「御国禁」とはいうが、長崎ではオランダ・カピタン飼料の牛は渡していること、などの諸点を挙げつつ、今後とも彼等の要求を拒否しつづけることはもはや困難なので、「以来病人之為ニは、牛売渡候様可レ仕哉、若難二相成一御儀御座候ハヽ、異国より親牛取寄、箱館表ニおゐて飼立、其国江相渡可レ申哉」、いずれかの対応策を至急決定してくれるよう強く要望したのである。
しかし老中は、具体的な対応策を決定しかねていた。それというのも、幕閣のみならず当時の日本人には牛の屠殺に対する抵抗感が根強く存在していたのに加え、海防掛大目付・目付が、箱館に「獣畜場」を設けることには賛意を表したものの、牛肉・牛の供給については、「老牛斃牛」の塩漬肉・味噌漬肉を供給すべしとの意見を老中に上申していたからであった(『幕外』13-30)。現地の状況を殆ど知らないこうした幕閣の論議に業を煮やした竹内は、同年11月12日老中に対し、「生牛」は外国人にとって船中の必需品であり、この問題は、「生牛一事のミニも無レ之、方今異国御所置之義ハ、悉従前之御国法御尊守与申訳ニは難二相成一形勢ニ付、権宜之法ニ従ひ、後弊無レ之廉は、速ニ御許容御座候様いたし度」とした上で、今大切なのは「御国威」をたてることでり、論議ばかり重ね、決定できないようなことでは、当事者として職をまっとうすることはできないとして、先の対応案に対する早急な決定方を迫った(『幕外』13-68)。かくして老中は、同年12月28日、先の竹内の対応案に対し、「耕牛相渡候儀は、素々御国禁ニ付、難二相成一候へとも、薬用之為申立候は、異国之情願も難二黙止一候間、別段獣畜場相立、豚并野牛飼立、出来次第相渡候様可レ被レ致候、尤箱館表ニ限リ候義ニ而、其他下田・長崎等は狭少之土地柄ニ而、耕牛之外別段牧場取立難二相成一候間、決而難二相渡一旨、急度申諭、証書取置、渡方取計候様可レ被レ致候事」(『幕外』12-76)との指示を与えるに至ったのである。つまり老中の指示は、「耕牛」を渡すことは「御国禁」なので、許可できないが、「薬用之為」との要求であれば、無下に拒否することもできないので、新たに「獣畜場」を設けて「豚」と「野牛」を飼育し、出来次第それを供給してもよい。ただし、これは箱館に限るというものであった。
この老中の指示によって、右の問題は一件落着したようにみえた。ところがその後、勘定奉行・同吟味役がこの老中の指示に関し、「野牛」は寒地である北辺にはいないはずだから、これは「ヤギ」の間違いではないか、と老中に上申したため(『幕外』13-154)、翌安政3年2月25日、老中は先の決定を取消し、箱館奉行に対し改めて「何れにも、牛は御国禁之廉を主張いたし、婉曲に相断、右代として、ヤキ・豚等相渡候様可レ被二取計一候」(『幕外』13-160)と指示するに至った。こうした老中の後退した指示に対し、箱館奉行は大きな不満を抱いたことはいうまでもない。