安政2年6月15日、老中阿部正弘は箱館奉行に対し、「箱館表江異人上陸遊歩いたし候ニ付ては、土民異人ニ馴近付、直売買は勿論、邪宗門之勧め受候之儀有レ之候而は、患害不レ少候ニ付、長崎表之振合を以、土地一躰ニ請証文申付、改之節踏絵為レ致候方、御取締も相立、御黒印面江対し候ても相当可レ致哉、尤是迄松前伊豆守方仕来も可レ有レ之候間、踏絵之有無得与勘弁いたし、可レ被二申聞一候事」(『幕外』12-27)と達した。この達にある「御黒印面」とは、いうまでもなく安政元年閏7月15日付箱館奉行宛将軍黒印状のことで、関係部分は、第2条「耶蘇宗門堅為二制禁一之間、弥守二其趣一、伴天連并同門之輩不レ可二乗来一、若令二違背一者、船中悉可レ行二罪科一、自然密々於二乗来一者、雖レ為二同船之輩一可二申出一レ之、急度可二褒美一旨、兼而可二申聞一事」、第3条「耶蘇宗門之者於レ有レ之者、其所々江申遣、可レ遂二穿鑿一事」、第4条「日本人異国江不レ可遣レ之、若異国住宅之日本人於二帰朝一者、宗門其外入念相糺可二注進一レ之、漂民送越候節者可レ為二同前一事」(『幕外』7-補遺3)という文言であった。全4か条のうち3か条が総てキリシタン禁制に関するものであることに加え、他の箱館奉行宛将軍黒印状の内容と比較しても、この黒印状のみがいわば異例ともいうべきほどキリシタン禁制に関する厳しい文言でうめつくされているということは、箱館開港に当たり、幕府がキリスト教の侵入をいかに恐れていたかを示すものとして興味深い。
ところで箱館奉行(竹内・堀)は、右の老中達を受けて、同年9月19日阿部正弘に対し次のように上申した(『幕外』13-7)。すなわち、松前藩治期には、「宗門人別帳為二差出一候迄ニて、別段改方之手続も無レ之」、前幕領期に東蝦夷地に3か寺を建立したものの、これまた「蝦夷人」の「宗門人別帳」というものもなく、「蝦夷人別は、東西其外共一統運上家会所等江取置候」のみであること、また開港場において「耶蘇」を改めることは極めて重要なことではあるが、かといって「蝦夷共」に「不二見馴一画像等」を示したところで、その効果はないばかりか、先年「耶蘇之徒」がその本尊を一見しようとしてわざわざ九州筋に行き、踏絵をしてますます信仰心を深めたという例もあるので、「踏絵為レ致候ハゝ、必御安心との見据も無レ之」、しかも、薪水其他を求めて外国船が入港する間は、さほど心配することはないとしても、今後外交官が居住し、葬地寺院等を建立するような場合は、問題が生じるだけでなく、「和蘭之如く、外国々を隔て、自国而已御国江異心無レ之旨を表し候族与は訳柄違ひ、彼等之尊敬いたし候本尊を、眼前土足ニ懸候ハゝ、必不快ニ存し、同宗之各国申合、争論大害を引出し可レ申も難レ計」ので、踏絵は実施すべきでないと。
かくして阿部正弘は、翌安政3年2月23日、下田奉行・箱館奉行に対し「下田・箱館表踏絵之儀、当節之形勢難二差置一義ニ付、此上両三年は踏絵等見合、追而市民之所業聊も耳目ニ触れ候義も有レ之候ハゝ、其節勘弁いたし、取計方可レ被二相伺一候事」(『幕外』13-181)と達するに至ったのである。