薩摩長州両藩に「討幕の密勅」が下りた慶応3(1867)年10月14日、徳川15代将軍慶喜は土佐藩の建白を受入れ、朝廷に対し「当今外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候テハ綱紀難立候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下ノ公議ヲ盡クシ、聖断ヲ仰キ同心協力共ニ皇国ヲ保護仕候得バ、必ス海外万国ト可並立候」(「徳川慶喜実記」『復古記』1)と、外交問題が日増しに重要になってきている現状から、日本が一本化しなければ対応が困難になっているので朝廷に政権を返還、同心協力して国を支えていかなければと、大政奉還の上表を提出(翌日勅許)、24日には将軍職の辞表をも提出した。
朝廷は12月9日「王政復古の大号令」を発して、摂政・関白(摂関制)・征夷大将軍(幕府制)など旧来の政治制度を全廃し、三職(総裁・議定・参与)を柱に新政府を樹立する旨を宣言した。その後の執行方針を議論する会議の中心議題は慶喜の処遇で、討幕派の薩摩藩(この日朝敵を許されたばかりの長州藩は陰で)の主導の下、慶喜の辞官と領地献納が決定され、慶喜は新政府から排除された。当時日本の総高は約3000万石で、諸大名が約2200万石余、幕府の直領が400万石、旗本直参の分が300万石余であった。領地献納の内訳は、幕府直領の内200万石の返上を命じるものであったという(佐々木克『戊辰戦争』)。財政基盤のなかった朝廷は、幕府の財力を当てにせざるをえなかったと同時に薩摩長州両藩があくまでも討幕を主張したための要求であった。しかし強硬派の旗本や会津藩、桑名藩など譜代の諸藩が、この決定に強く反発したため、慶喜は彼らの鎮静を図るべく京都の二条城を出て大坂城に退いたが、領地返上命令には強く抵抗、「御政務用度ノ分、領地ノ内ヨリ取調ノ上、天下ノ公論ヲ以テ御確定可申被遊」(「春獄私記」『復古記』1)と、政務の必要経費分の領地を献納する形に変更させた上、新政府の指導者の地位への返り咲きを画策していた。また大政奉還に際して最も考慮した外国関係については、12月16日大坂城においてフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロシア、オランダ6ヵ国の公使を招き、衆議によって新政体が定まるまでは外交権を掌握し、各国との交際は自分が担当する旨を告げていた。
だが武力討幕派の江戸撹乱策に乗せられた幕府の強硬派は、12月25日、庄内藩を主力部隊として江戸の薩摩藩邸(三田屋敷)襲撃を敢行した。この襲撃は、幕府フランス軍事教師団のブリューネ砲兵大尉の砲撃作戦書に基づいて実施されたものであった(『旧幕府』)。
28日、大坂城にその旨の急報が入ると、もはや強硬派の激昂を制止出来なくなった。慶喜は、「(12月)九日以来ノ御事件ヲ奉恐察候ハヽ、一々朝廷ノ御真意ニ無之、全ク松平修理大夫(薩摩藩主島津忠義)奸臣共陰謀ヨリ出候ハ天下ノ共ニ所知、殊ニ江戸、長崎、野州、相州処々乱妨及劫盗候モ同家家来ノ唱導ニヨリ、東西響応シ皇国ヲ乱リ候所業、別紙ノ通ニテ、天人共ニ所憎ニ御座候間、前文ノ奸臣共御引渡御座候様御沙汰被下度、万一御採用不相成候ハヽ不得止誅戮ヲ加ヘ可申候、此段慎テ奉奏聞候」と、朝廷の決定も諸国の暴動もすべて薩摩藩の奸臣の仕業であるので、彼らを誅戮したいとの「討薩表」を作成し、強硬派の京都進撃を許した。翌慶応4年(9月8日に改元されて明治元年となる)正月3日、上京する旧幕府軍は、鳥羽街道で薩長軍と遭遇し戦端が開かれた。いわゆる鳥羽伏見の戦いで、翌2年に箱館戦争の終結を見るまで続いた内戦の発端である。しかし旧幕府軍の不手際から予想外にあっけなく敗北したため、慶喜は慌てて大坂から開陽丸で老中板倉伊賀守勝静、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬(容保の実弟)らと共に江戸へ逃げ帰った。緒戦に勝利した新政府は、7日「慶喜反状明白、始終奉欺朝廷候段大逆無道、最早於朝廷御宥恕ノ道モ絶果、不被為得已追討被仰付候」(「春嶽私記」『復古記』1)との慶喜追討令(11日に慶喜追討令制札も出る)を出し、旧幕府領の没収を決定した。江戸へ逃げ帰った慶喜は、その後も親幕府勢力やフランスの力を背景に勢力の挽回を策したが、新政府の優位は動かし難く、ついに2月11日恭順の意を諭達し、翌12日に江戸城を出て東叡山寛永寺に謹慎し(4月11日水戸に赴く)、徳川幕府は倒壊した。