箱館占拠後、有川の陣屋から福山へ戻った松前藩の出方をうかがっていた脱走軍は、10月28日、土方歳三を長として彰義隊、額兵隊、陸軍隊、衝鋒隊など800人余が和戦両様の構えで福山(松前郡松前町)へ向け出発した。11月1日、知内村に宿陣した脱走軍へ松前藩兵が夜襲をかけて戦闘が開始された。その後、進撃を続けた脱走軍は5日早朝には福山城へ迫った。小銃の一斉射撃で表門を突破、またこれと相前後して、裏手からも1隊が突入、松前藩兵は新城を築いた館村および江差へ向けて退却、福山城下は完全に脱走軍の手中に帰した。
福山で小休止後、土方隊は江差へ向かい、14日には大滝峠を落とし、15日に塩吹まで進んだところで、旗艦開陽から江差を占拠したとの報告が入った。陸軍諸隊の活躍に焦りを感じていた海軍士官の要請で、敵状視察にやって来ていた旗艦開陽は、松前勢が江差も支え難いとの判断から熊石へ退却したため、江差港に難なく入港していたのである。
この夜、激しい風波のため開陽は座礁し、数日後海底に没した。榎本や艦長沢太郎左衛門らが、留学を兼ねてオランダの製造所まで引き取りに行って来た最新鋭艦開陽は、あっけなく沈んでしまったのである。さらに救援に駆け付けた神速も荒波の中に引き込まれた。この開陽の沈没は、脱走軍の海軍力を大きく低下させただけでなく、彼らの士気をも大きく落ち込ませることになったのである。
一方、1連隊を率いる松岡四郎次郎は、別動隊として鶉山道(国道227号線)を江差へ向かった。11月11日に二股(中山峠の亀田郡大野町側)、次いで12日には稲倉石(中山峠の桧山郡厚沢部町側)を抜き、15日早朝には松前勢が立籠もった館村の新城に迫った。戦闘は白兵戦となり、元福山法華寺の僧三上超順らの奮闘もあったが、松前藩兵は潰走した。松前藩主松前徳広は、逃れて熊石から近臣と共に和船で津軽へ渡ったが、失意の内に没している。
松前地方の制圧を終えた脱走軍は、降伏した松前兵の処分を済ませ、江差には1連隊、松前には陸軍隊(のち遊撃隊が代わる)を残し、五稜郭へ凱戦した。
しかしこの戦闘中、脱走軍は彰義隊と額兵隊が先陣争いを行ったり(荒井左馬介「蝦夷錦」)、斬り取りは武士の習い的な行動をきっかけに彰義隊内部に抗争が起き、榎本が調停に奔走して分隊(大彰義隊と小彰義隊)とすることで収拾するなど(明治2年1月8日「榎本釜次郎書簡」『北海道郷土研究資料』)、寄り合い所帯からくる戦国武士的な動きも露呈した。