邏卒の仮設

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 東京、神奈川に邏卒が設置されると、東京出張所は神奈川県の邏卒の状況調査を開始し、規則、規模、経費(邏卒月給5両、1人の1か年諸経費96両)等の資料を入手、函館に送った。これを受けて函館の主任官杉浦判官(明治5年2月権判官から判官に昇任)は、明治5年2月27日次のような伺書を黒田次官へ提出した。これは、明治4年に函館を視察に来た兵部省の桐野利秋(旧名中村半次郎)少将から、護兵隊を兵部省所管に移すことについて一応の内諾を得ていたことを受けて出されたものであった。
 
              函館兵隊の儀ニ付相伺候書付
(前略)抑当地の如きは諸開港場と違ひ絶海の地也、万一管下小紛擾を生せし時之を圧抑するも内地を仰く様にては、庁あるも無が如くニ付、悉皆解兵と申訳にも相成間敷、兵は非常に備とは乍申、眼前格別の御入費相かヽり候を此まヽさし置候も遺憾ニ付、神奈川県邏卒の法方ニ比較し算計為致候処、当所護兵御入費と敢て相違ひも無之、然る上は凡そ自今の例を以被据置候歟(但御入用減し方ニ付些末の改正は追々取行ひ候積)、或は現在のまま兵部省へ御引渡し同省より出張の戍卒となし、諸方巡邏并ニ取締向等は是迄の如く当使より命じ、御入費筋一切当使ニ関係無之様歟、両様の外私共別段勘考無御座候、(中略)別ニよき御手段も候はヾ何分の御指図奉願候也
   壬申(明治五年)二月二十七日   (山田)致人
                   (杉浦)誠      (明治五年「次官殿伺済」)

 
 つまり、これまで通り護兵隊を維持する方法と、護兵隊は兵部省に引継ぎ、市中巡邏は彼らが担当するという方法の二者択一の判断を仰ぐというものであった。函館では邏卒設置を視点には入れてはいたが、導入には向かっていなかったのである。この伺書に対する指令も「当分従前の通」で護兵隊は当分そのまま存続することとなった。
 ところが3月25日、邏卒設置に意欲的だった黒田次官が、函館の次席に就任することとなった松平太郎と共にニューヨーク号で函館港に入ると、事態は一変する。黒田次官は酒田県(旧庄内藩)士族50人を函館の邏卒とすることで、酒田県参事菅実秀(旧庄内藩家老)と交渉を開始しており、函館でその詰めが行われたのである。庄内藩は、戊辰戦争時黒田次官が庄内藩攻撃軍の参謀で、降伏交渉に際して庄内藩の処分に関し庄内藩士を納得せしめる配慮を示したため、戦後家老菅実秀が藩を代表して黒田のところへお礼言上に来た(井黒弥太郎『黒田清隆』)という藩である。黒田次官がなぜ旧庄内藩士を函館の邏卒にと考えたのかは不明であるが、「強壮ニテ堅実ノ者」といわれた旧庄内藩士で篤実な民政実務者松本十郎開拓判官の顔と共に旧庄内藩のことが頭に浮かんだものかも知れない。この酒田県士族を函館の邏卒にという企画は、4月5日に東京出張所から酒田県へ念を押す形で依頼され、函館へもその後の処置についての指示がなされた。
 これを受けて5月11日に引率者山内久内に率いられた酒田県士族50人(表2-5)は鶴岡を出発、函館に向かった。山内久内らが函館に着いた時、函館の主任官杉浦判官は黒田次官と共に出京中(5月2日函館発、6日東京着)で、次席の松平太郎5等出仕が彼らを迎えた。この松平太郎、明治元年に榎本らと共に旧幕府脱走軍として函館を占拠した時の副総裁で、開拓使に入って勤めた職も函館出張開拓使庁の次席であった。ちなみに彼は明治2年5月五稜郭で降伏後、永井玄蕃、大鳥圭介、荒井郁之助、沢太郎左衛門、榎本武揚、松岡磐吉(明治4年獄中で病死)と共に兵部省糺問所の獄(通称辰の口牢屋)に繋がれていたが、明治5年1月8日に永井らと共に赦免され(榎本武揚は親類預けとなり赦免は3月6日)、同月12日やはり永井らと共に開拓使へ出頭し開拓使御用係を命ぜられている。この時の辞令について沢の息子が後の新聞に次のような談話を残している。
 
此時の辞令も頗る珍無類である、曰く「開拓使御用掛申付候事但当分出勤に不及候事」月給は百両で任官しながら為すこともなく遊んで居った。蓋し獄中の疲労を休むる新政府の好意と知られた。
(沢鑑之丞造兵総監談話)   
(明治四十四年六月十六日「函館毎日新聞」)   

 
 表2-5 酒田県貫属邏卒名簿 (鶴岡出発明治5年5月11日)
氏名
職名
発令月日
職名
発令月日
職名
発令月日
記号
阿部道明(小三郎)
邏卒
5.6.8
中邏卒
5.9.23
 
 
32
△◎□
阿部正義(英作)
邏卒
5.6.8
中邏卒
5.9.23
 
 
27
△◎□*
荒井良実(卯七郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
17
△◎□
荒竹信功(金弥)
邏卒
5.6.8
中邏卒
5.9.23
大邏卒
6.5.20
20
☆◎口
安藤嘉遠(二市郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
中邏卒
6.5.20
26
△◎□*
市橋賢能(富太郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
中邏卒
7.6.14
18
△◎
海老名敬行(七郎治)
邏卒伍長心得
5.6.8
大邏卒
5.9.23
3等権区長
5.11.29
27
☆◎  *
大川教孝(啓蔵)
邏卒
5.6.8
中邏卒
5.9.23
大邏卒
5.11.29
27
☆◎□*
岡島芳則(久三郎)
邏卒
5.6.8
中邏卒
5.9.23
大邏卒
7.6.14
20
☆◎□
梶原道直(幸大太郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
中邏卒
7.6.14
23
△◎□*
神田泰道(安太郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
20
☆◎□
上林正脩(重次郎)
邏卒
5.6.8
中邏卒
5.9.23
 
 
19
☆◎□
木村信義(百太)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
中邏卒
7.6.14
27
△◎□
清野知中(幾代治)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
21
△◎口
工藤政虎(儀一郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
24
△◎□
小久保新書(貞直)
邏卒
5.6.8
大邏卒
5.9.23
3等権区長
6.5.20
37
△◎
佐藤直利(鉄弥太)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
中邏卒
8.12.14
2
△◎□
佐藤信寿(良蔵)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
中邏卒
8.9.4
2
☆◎□*
佐藤宗正(武三郎)
邏卒
5.6.8
中邏卒
5.9.23
大邏卒
8.1.13
2
☆◎  *
庄司迩信(弥和太)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
18
△◎
高井泉士(友政)
邏卒
5.6.8
中邏卒
5.9.23
大邏卒
6.12.30
2
☆◎□
高橋安長(寅次郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
18
△◎
武田孝継(七郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
中邏卒
6.8.30
1
△◎□*
富沢利安(平吉郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
19
△◎  *
西村為則(仙治)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
21
△◎
古野嵩央(半蔵)
邏卒伍長
5.6.8
大邏卒
5.9.23
3等権区長
5.11.29
2
☆◎  *
三浦信準(仲次郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
16
△◎
茂泉興孝(小一郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.8.25
中邏卒
6.1.28
2
△◎□
山内久内(信和)
邏卒御用係
5.6.8
権中主典
5.9.23
邏卒権検官
5.10.25
3
☆◎  *
渡辺敏功(吉五郎)
邏卒
5.6.8
少邏卒
5.9.23
 
 
18
△◎
富樫信好(元吉)
邏卒伍長
5.6.8
 
 
 
  ☆○
朝田甚吉
邏卒
5.6.8
 
 
 
  ☆○
渡辺十郎
邏卒
5.6.8
 
 
 
  ☆○
鹿島調一郎
邏卒
5.6.8
 
 
 
  ☆○
庄司長太
邏卒伍長
5.6.8
 
 
 
  ☆○
前森謙蔵
邏卒伍長
5.6.8
 
 
 
  ☆○
荻野宗弥
邏卒
5.6.8
 
 
 
  ☆○
池田源吾
邏卒
5.6.8
 
 
 
  ☆○
小黒熊弥太
邏卒
5.6.8
 
 
 
  ☆○
山路剛太
邏卒
5.6.8
 
 
 
  ☆○
足立久治
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
中川二郎太
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
阿部亀吉
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
庄司権六
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
高橋登弥太
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
高橋甚吉
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
渡部重治
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
原田石五郎
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
柳瀬孫治
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
足立長七
邏卒
5.6.8
 
 
 
  △○
鈴木又治
邏卒
5.6.8
   
 
 
  △○

 明治5年2月「官員明細短冊」、「開拓使公文録」5744、明治6年「職員表」、明治8年「職員表」より作成
 ◎印は函館在勤者
 口印は明治6年6月24日(戸籍調査簿を完成し民事課へ引継いだ日)在籍者
 *印は明治15年までの函館在勤が確認できた者
 ○印は札幌派遣の者
 ☆印は赴任旅費3円36銭受給者
 △印は赴任旅費2円受給者
 注 カッコ内は通称名乗一本化で廃止した名前
 
 彼らはまず大鳥圭介が1月20日に5等出仕(2月24日兼任大蔵少丞となり吉田清成大蔵少輔の随行として米国派遣)、松平太郎が2月9日に5等出仕、荒井郁之助が同月23日にやはり5等出仕(創設された開拓使仮学校掛最高官)となり、後れて榎本武揚(3月6日赦免)は3月8日に4等出仕となった。沢太郎左衛門は2月に兵部省6等出仕(のち海軍大学校教授)に転じてすぐに開拓使を離れていった。箱館戦争の降将達は先ず開拓使に拾われたわけである。5年7月18日に明治10年代函館官界の中心に位置した鹿児島県士族時任為基が開拓使に入っているが、8等出仕である。黒田次官が榎本武揚らの処遇に意を用いたかが分かるであろう。
 酒田県からの51人が到着したため、5年6月4日、松平は邏卒設置について出京中の杉浦判官へ「横浜ノ振合ヲ以当港相当ニ取捨、邏卒ニ組立候積、其段次官殿ヘ御申立可被下候、付テハ護兵伺済之通解隊、尤砲兵従来之人員ニテハ祝砲等之節差支候間、解隊之内人選等級ヲ分テ三十五人増員都合砲兵五十人ニ致候、当節専ラ練兵中ニ有之候」(「開公」5733)と函館の状況を報告した。
 次いで翌5日、50人の砲兵発令を行い、7日には護兵隊を解隊、残りの隊員は被免した。その上で翌8日、酒田県からの51人を函館邏卒として採用、富岡町15番地の真宗能量寺堂宇内に本営を仮設した。引率者山内久内は当分の間ということで邏卒長心得となり、「邏卒規則書」が渡され、関係事務の取扱を命ぜられた。また富樫元吉、海老名七郎治、庄司長太、古野半蔵、前森謙蔵の5人は、これも当分の内との但書き付で邏卒伍長となり、残りの45人が邏卒となり、翌9日から邏卒による巡邏が開始されたのである(明治5年「官員進退禄」)。その後草創期の邏卒の最高責任者となる有竹裕(岐阜県士族)も、6月17日に東京出張所で9等出仕函館邏卒御用掛として採用されている(「開公」5715)。酒田県士族が函館の邏卒として市中巡邏を開始した頃、札幌本庁から邏卒派遣の要請があった。このため富樫信好(元吉)を引率者に邏卒伍長(庄司長太と前森謙蔵)2名と邏卒18名が派遣され(7月27日札幌着、8月6日巡邏開始)、彼らはそのまま札幌邏卒の草創となった(「開公」5506、『札幌区史』)。
 なお、祝砲担当の砲兵は、函館出張開拓使庁庁舎と弁天岬台場の門番も兼任していたが、翌6年には開拓使から陸軍省へ移管されることとなり(明治6年4月10日付正院伺)、11月13日に弁天岬台場(1万1552、63坪)、同台場付属建物6棟と共に陸軍省大尉吉利用通の手に引き渡された(「砲兵砲台引渡書類」)。この時の引渡書類をみると、開拓使側の書類には「弁天岬台場」とあり、陸軍省の書類には「弁天岬砲台」とあるので、通称弁天台場は陸軍省所管の時から「弁天岬砲台」となり、通称も弁天砲台と呼ばれるようになったようである。