この後、具体的な区画割の検討が続けられ、12年7月23日、乙第4号布達をもって「明治十一年七月第十七号布告郡区編制法ニ拠リ当使管内ノ大小区相廃シ更ニ郡区町村別冊ノ通リ編制候条此旨布達候事」と郡区町村編制法の適用が布達された。しかし、3新法の施行理由では「府県都市は行政区画と住民独立の区画の二種の性質を持たせ」と述べられてはいるが、府県会や区町村会を持たないままの郡区町村編制法の適用は、郡区役所を官治的な地方行政区画維持機関としての面ばかりが目立つ形となったのである。同時に郡区長は開拓使権少書記官(月俸80円)相当以下とすることや、法律命令を郡区内に施行し郡区内の事務を総理することなどの「郡長以下職制」(7月23日第14号達『布類』上)が示された。函館支庁管内の郡長で最も高い月給をもらったのは津軽福島郡長に任命された寺田良輔で、月給は80円、開拓使少書記官からの横すべりであった。
函館では、「大小区相廃シ」を受けて町会所内の第14、15、16大区区務所が廃止され、江戸時代以来函館の町政を担当してきた町会所もその業務を区役所に引き継ぐこととなった。この時、『函館区史』などでは町会所、区務所を廃止したとなっているが、大小区制によって設けられた区務所は、大小区の廃止で区務所の廃止が確認できるが、町会所を廃止したという布達はなく、町会所という名称はしばらく存続していたことは前述(第2章第3節)した通りである。次いで8月18日、区役所開庁までは区務所が元区務所の名で事務取扱いを継続することが達せられ(『郡区改正に係る布達々書』)、10月には大小区制の区長常野与兵衛が区長(月俸35円)に、戸長山崎清吉、同安浪次郎吉、同杉野源次郎と開拓使9等属桜庭為四郎が区書記に任命された。前戸長の3名は月俸15円で、9等属から区書記となった桜庭為四郎は18円であった。また常野与兵衛は郡区制の区長就任以後、区長としては常野正義を名乗っている。
12月25日、翌13年1月1日から郡区役所が開庁する旨の達が出され、郡区長及び戸長の職務概要が「郡区長処分後本支庁長官報告事項」(18項目)・「戸長職務概目」(13項目)・「郡区長特任条件」(当初46項目)という形で示された(明治12年12月25日函館支庁第99号布達および明治13年1月5日第1号布達『郡区改正に係る布達々書』)。これは3新法布告後に制定された「府県官職制」(明治11年7月25日太政官達第32号)に則ったもので、「郡区長処分後本支庁長官報告事項」及び「郡区長特任条件」は、「府県官職制」が具体的且つ詳細に補強されている。「戸長職務概目」は、13項目は勿論、13項目外の事務処理についても「本支庁長官又ハ郡区長ヨリ命令ズル処ノ事務ハ規則又ハ命令ニ依テ従事スルコト及ビ協議費支弁ノ事件ヲ幹理スルコト」とあって、「府県官職制」と同じである。大小区制のときには江戸時代の町年寄名主の業務を自然に受け継いできた経緯もあって、区戸長の職務を明文化しないまま推移してきたが、官治的要素が色濃く出た郡区制の成立で、郡区長戸長の職務も明文化されることとなった。
明治13年1月5日、函館区役所の実務が開始され区務所の事務を引継いだ。この日、町代以来の系譜を持つ町用掛と百姓代等が転化した村用掛が廃止された。区役所の分科は庶務、戸籍、出納、租税の4科(明治17年7月19日に勧業科が増える)であった。区役所開庁時の区長区書記は表2-45の通りである。この外、区役所には若干の「雇」と「臨時雇」が配置された。
表2-45 函館区役所区長書記一覧表
氏名 | 任命日 | 月俸 | 辞任日 | 前職 | 備考 |
常野与兵衛 山崎清吉 安浪次郎吉 杉野源次郎 桜庭為四郎 金子慶吉書 工藤弥兵衛 興村忠兵衛 白鳥宇兵衛 上田武左衛門 畑野仁平治 川上賢輔 | 12.10.14 12.10.24 12.10.24 12.10.24 12.10.30 13.1.5 13.1.5 13.1.5 13.1.5 13.1.5 13.1.5 13.1.8 | 円 35 12 12 12 18 12 12 10 10 10 10 10 | 13.12.13 13.4.20 13.6.2 13.7.3 13.6.2 13.6.2 13.7.3 | 大小区制区長 大小区制戸長 大小区制戸長 大小区制戸長 開拓使9等属 同等外2等 大小区制戸長 大小区制戸長 大小区制戸長 大小区制戸長 大小区制戸長 常盤学校教員 | 区長 以下区書記 12.12.13区長心得となる 函館県時代も区書記 函館県時代も区書記 函館県時代も区書記 函館県時代も区書記 |
「函館区政沿革史」『河野文庫』北大蔵、「函館新聞」より作成