安田ら4書記官が設立予定の会社には、「北海社」という名称が予定され、創立証書(6か条)や定款(28か条)も用意されていた(「五代友厚関係文書」)。それによると新会社の本拠地は箱崎町産物取扱所で、事業目的は払下げ諸事業の経営であった。営業資金は官からの貸与資金14万円余を含めて20万円を予定していた。
一方払下げの主体と目された「関西貿易社」は、14年5月創立された商社である。同社の概要を「関西貿易社創立証書并定款」および「設立発起人決議」(『五代友厚伝記資料』第4巻)で見てみると、資本金100万円(内50万円は五代友厚他22名の発起人が出資、残りを公募)、本店は大阪に置き、神戸、上海、東京、長崎、天津、漢口、広東へ漸次支店を開設の予定で、役員は総監が五代友厚、副総監が住友総理の広瀬宰平となっている。さらに同社の営業目的はアジア地方への貿易拡張で、半官半民の貿易商社である広業商会(第6章第3節参照)とは協同歩調をとり、同商会への資金援助も考慮した。
営業目的のアジア地方への貿易拡張は、北海道の海産物(昆布・海鼠・鯣など)を中国へ輸出するのが主眼で、その北海道の現況を「北海道ノ地形ヲ見ルニ西海岸ヨリ函館近傍ハ日ニ開進ヲ競ヒ、従テ商業既ニ至ラザル処ナク、其売買運転ノ瞬速活発ナルハ我内地輻湊地ノ商業ト雖ドモ亦タ一歩ヲ譲ルノ景况アリ、故ニ新ニ事ヲ開クモ容易ニ勝算ヲ得ル能ハザルモノノ如シ」ととらえ、「本社ハ専ラ運送不便ニシテ未開地ナル根室及ビエトロップ諸島ニ於テ我ガ目的ナル営業ヲ拡張スルモノトス可シ」とした。さらに、北海道への物資運送にも魅力を感じていたようで、「北海道ノ地ハ各種貨物非常ニ騰貴シ亦非常ニ下落ス(中略)非常ニ騰貴スルモノハ彼ノ出産物ニ非ズ、我ヨリ輸送スル処ノモノニシテ、其欠乏ニ際シテハ非常ニ騰貴ス、此レ乃チ之ヲ輸送シテ之ヲ売ルベキノ時ナリ、其非常ニ下落スルモノハ、北海道産出ノ物品価格ニ対スル資金毎ニ不足スルヲ以テ、其資金ノ欠乏スルニ当テハ必ラズ其非常ノ下落ヲ見ル、此レ其ノ之ヲ買フベキノ時ナリ」と、北海道を投機的な目でみており、新聞諸紙が指摘したとおり関西貿易社に開拓使の物件が一切払下げられると、北海道民の生殺与奪の権を関西貿易社に握られる危険性をはらんでいたといえる。
また、五代らは、北海道に着目した際、輸送手段の確保を最優先に考えており、五代はこの会社を興すに先立って14年3月東京で開拓使の幹部と会談、北海道の産物の取扱いに関し開拓使の協力を取り付けていた。このことは3月25日に東京出張所の安田定則、調所広丈、西村貞陽から五代友厚へ宛てた書簡「就テハ御談示御座候支那貿易上ニ関シ、北海道ヘ着手御見込ノ義ハ長官始一同至極御同意、当使於テ最希望スル所ニ付、充分ノ保護可致候間、篤ク御尽力相成度」(「五代友厚関係文書」)で確認できる。さらに、4月に発起人決議をまとめるとすぐ広瀬宰平が先発(4月10日大阪発)として北海道視察に出発、途中東京で黒田長官を訪ねて長時間面談している(同前5月5日付書簡)。次いで6月中旬五代も中野梧一、田中市兵衛と共に大阪を出発、東京へ向かい8月10日東京を立って北海道へ向かった。この東京滞在中の事と思われるが、岩内炭坑と厚岸官林の払下を出願、許可を得ている(『五代友厚伝記資料』第4巻)。
このように開拓使と非常に親密な関係を持ちながら活動を開始した関西貿易社ではあったが、創立証書第3条の営業目的に開拓使の事業継続をうたいあげた北海社とは、建て前では性格を異にする会社であった。