初の東北巡幸であった明治9年の巡幸(6月2日~7月20日、主要視察地-日光、宇都宮、白川、福島、白石、仙台、盛岡、青森)の際には、帰路函館港に寄るとの達(明治9年太政官達第46号「太政官日誌」)を受けた開拓使の請願で、明治天皇の函館市中視察(7月17日)が実現したが、今回は主目的が北海道の開拓状況視察ということで、当初から開港場函館の変貌視察も日程に折り込まれており、9月7日が函館市中視察日と予定されていた(明治14年函館支庁達第37号「開拓使函館支庁布達」)。
しかし8月28日、天皇の函館視察は中止する旨の達(明治14年函館支庁達第39号「前掲」)が出され、9月7日午前には青森に向かうことに変更された。この変更に対し、函館市民は29日、杉浦嘉七、常野正義、田中正右衛門、杉野源次郎、渋田利右衛門、常野嘉兵衛、工藤弥兵衛、米谷権右衛門、石田啓蔵を区民有志惣代として市内視察再考の願書を提出(明治14年8月30日「函新」)したが、翻意されなかった。この突然の変更は世間の注目を集めたようで、「高知新聞」でも「県外雑報」の項で次のように報じられた。
兼て噂の高き官有物払下げの事に関し、箱館には人民と開拓使官吏との間に大葛藤を生じたり、其の仔細を聞くに該官吏等が自から常平倉を占有して区民一般の共有物と為すの願意を拒絶せしに因り、人民は遽かに会議を開き総代を出して其の処分の不公平を争議すれども中々聞き入る模様なく、已むを得ず聖同駕の御駐輦を待って之を哀訴せんと、実に一日千秋の思いをなし居たるところ、何ぞ料らん該港御駐輦のことは一先御見合となれり、蓋し箱館は北海の一都会にして開拓支庁あり裁判所あり、思ふに必らず皇上の蹕を駐め給ふ土地にして、現に人民の用意を為し之を奉待し居るにも拘はらず、卒然一夜の御休伯のみにて匆々御発輦となしは以外も亦た甚だしかりき、之れがため頻りに風説を為すものあり、曰く開拓使は箱館人民が行在所に向ふて、同使の処分を告訴せんことを恐れ、供奉の大臣参議等に協議して遂に御駐輦なきに至らしめんと、若し此の風説をして信ならしむれば余輩唯だ鳴呼と申すの外なき也 |
(明治十四年九月二十日「高知新聞」) |
常備倉払下再願書を提出しながら、開拓使の対応に行き詰まりを感じていた請願者達は、やむを得ず政府高官への請願に踏み切った。まず5日夜、石川小十郎が単独で、次いで山本忠礼、枚田五郎、井口兵右衛門の3人が、天皇の代覧を努めることとなった北白川宮と共に5日に函館へ入っていた大隅重信参議を宿泊所に訪ねて陳情、その仲介で翌6日には左大臣有栖川熾仁親王に拝謁、現状を陳述し、同時に大木喬任参議にも懇請した。この時提出したといわれる大隈参議あての建言書が2通残っている(「大隈文書」早稲田大学図書館蔵)。1通は石川小十郎単独の建言書で、もう1通は林宇三郎、小野亀治、杉野源次郎、枚田藤五郎、井口兵右衛門、山本忠礼の6人連署の「函館区豊川町常備倉御処分ニ付建言」書である。石川の建言書は、開拓使の弊害を指摘、これを廃止して北海道経済を自由主義経済とするようにと述べ、「若シ一社ニ払下ル時ハ、物産興隆セズシテ、財力ノ哀微如何ノ点ニ至ルカモ計ル可ラズ」と論断している。
山本らの建言書は、常備倉建設及び払下げ請願の経緯を陳述、常備倉を是非とも函館区へ払下げられるよう尽力してほしいと結んでいる。なお、9月17~20日「報知新聞」と9月18~24日「朝野新聞」には、この時左大臣有栖川熾仁親王へ提出された書面の趣旨要旨ということで、払下げにかかる詳細な経緯を述べた書面と常備倉払下げの請願書が載せられている。山本らの請願書(左大臣有栖川熾仁親王、大隈参議、大木参議)に対しては、14年12月大木参議から却下された旨の連絡が平田文右衛門宅へ入り、彼から林宇三郎へ返却されたという(12月26日「函新」)。
この彼らの行動は開拓使を大いに刺激、9月10日、再願書に対する前述の指令が但書付きで出されたものと思われる。