都市形態の特徴とそのイメージ化

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 これまでは、函館における幕末、明治初期の都市形成をほぼ年代順に跡を追う手法で説明してきた。そして、ここでの時代区分を明治5年頃までを一応の目安としたのは、旧幕府の事業の継続として海岸道路の整備を位置づけたこと、そして前述した海岸通りの3町を加えた段階より明治期の都市形成を考えることにしたためである。次の明治期の説明にとってその違いなどをわかりやすくするために概略的に幕末、明治初期の都市形態をいくつかの視点から整理してみることにした。

幕末の都市形態概念図

 幕末の都市形態をまとめたのが図4-6である。先に もふれたが都市機能の二分化がこの時期の特徴としてあげられるが、平地と斜面という違った自然環境であることも留意する必要があろう。そのため西部地区は、斜面に沿って機能性が違うことが理解できる。また、崖地によって海岸地と山の手に仮に区分けもできるのである。これに対し居留外国人は、個人のレベルで海岸地の蔵地と山の手の住宅地という具合に住み分けをしている。特に領事館などはⅡの地区でもっとも山の手に位置している。これは政府の考えによることもあるが、横浜などでもみられるように居留外国人は山の手を好む傾向も忘れてはならないと思われる。
 また、大きな区分けになるが海岸地は沽券地が多く、山の手は拝借地が多いこともいえよう。
 次に開港地ということを強く意識して図4-6をみれば、五稜郭地区とⅤの部分がその影響により加わったわけで、西部地区の土地利用は開港以前と基本的には変わっていないこともわかる。しかし、海岸線については開港によって大きな変化が生じる。それは、海岸線が同質の区域であったのが、運上会所、外国人居留地そして蔵地としての埋立地など各施設が具備されることによって場所ごとの機能性が明確化し、それらを結ぶ新たな機能が必要となった。それがこの場合図4-7からもわかるように海岸道路であった。このことと関連するが、この時期の町形成は海岸通りや町家通り、寺町通りなど「通り」を中心として形成されたことも認識しておくことが必要であろう。
 さて、居留外国人が当地に居住した事で影響を与えたことに地代の問題がある。当初大町築出地の地代決定についても、当地の商人の取引高に見合わせて決めるという方針を説明していたことは前述したとおりである。しかし、実際の地代は約28両で洋銀に換算すれば約36ドルであり、当時の市中の地代(前掲図4-2)と比較しても高い数値であることがわかる。地蔵町築出地は横浜にならって27ドル97セント余と決められ、当時の山の手地区の地代も同額と決められていた。(慶応3年「各国人民貸渡地所書類留」)、当時の山の手地区の相対による貸渡地代は、前掲の図4-2にみられる金額とそれ程違いがなかったが、大町築出地の取り決め以降値上がりした(前掲「外国人地所貸渡其他規則関係書類」)。
 最後に今まで述べたことを包括するような意味で、函館のこの時期の「場」の構造をイメージ化したのが図4-8である。函館の都市形成は、都市機能面から見ても、地代の面から見ても政府レベルで動いていたことがわかる。また、政府と諸外国との外交問題が市中の動きより優先されたことも事実である。しかし、居留外国人と商人との相対による地所貸渡しを整理できなかったことも函館の開港地としての特徴のひとつともいえる。つまり、函館の都市形成は国家的政策の中にありながらも、他の開港地との比較を忘れることなく、また函館の実態をも包含したうえで当時の「場」の主体者としての箱館奉行がこれら葛藤の中から実体化していったものと想定できるのである。

開港前後の海岸区の動線想定図


「場」の構造圏図