さて街区改正事業の課題である道路の整備とともに、もうひとつの柱が家屋改良であることは前にも述べたとおりである。この家屋改良については、大火以前においても次のような達しが明治8年に出されていた。
函館区中へ |
当地市中家作ノ儀是迄火災予防ノ注意無之ヨリ、家屋製作共宜ヲ不得向も有之候処、追々人家稠密相成候ニ随ヒ延焼ノ決難防止義モ可有之候条、今後家作倉庫等新築致候者は防火之良法ヲ考究シ、資力有ル者は可成丈瓦家根塗家或ハ、石造等ニ致シ、人家稠密ノ地ニハ板蔵等不取建様注意致候ハヽ、自他消場ノ利益不少筋ニ候条為心得此旨布達候事 |
明治八年四月廿七日 |
開拓使三等出仕杉浦誠 |
(明治八年「御達留」) |
しかしこれらの効果がほとんどみられなかったのは、2度の大火によって知ることになった。そのために今回の改正では、家屋改正についての貸付金を交付してまでも、その実効をはかったのである。これにより明治11年大火後での件数は土蔵造29棟であり、同12年大火後では煉瓦造1棟、土蔵造12棟の実績であった。また、明治12年の大火後では貸付金を受けないで建築する家屋もあり、煉瓦造6棟、土蔵造25棟、塗家6棟、洋風木製27棟を加えることができる(明治14年「函館支庁内諸課文移録」)。しかし、これらの総体の数からも推察できるが、商業地区における店舗建築がその耐火建築の実態であり、民家においては依然として粗悪な家屋が改善されたとは考えにくいのである。
さて、特に明治12年の大火後の街区改正に関連する事項を断片的に紹介してみると次のようになる。一つは、耐火建築という意味で家屋ばかりでなく、火防土塀などが設置されるようになることが次の史料から理解できる。
明治11年大火後の復興の様子 北大図書館北方資料室蔵
明治12年大火後の耐火建築
火防土塀設置願
当区曙町六番私シ所有地ト汐見町弐番地トノ境界ニ火災予防ノタメ、自費ヲ以テ土塀建設仕度奉存候得共、所有地内ハ狭隘ニシテ建設スヘキ余地無之、困難罷在候ニ付該地接続官邸地ノ内ヘ地界ヨリ六尺外、則チ別紙略図朱引ノヶ所ヘ設置仕度奉存候間、御差閊ノ筋不被為在候ハヽ、御許容被成下度、尤御入用ノ筋ハ何時ニテモ御達次第、取毀返上可仕候依テ此段奉願上候也
明治十八年一月三十一日
函館区末広町三十九番地
泉藤兵衛 印
函館区県令時任為基殿
(明治十七年「地所建物関(係脱カ)願伺届綴込」)
これらの火防のための塀は、この時期のものとは確定できないが、現在でも山の手地区に見られ煉瓦でつくられているものが多く残存している。
次に、坂道の直線化とその工事で石垣が施された関係からか、崖地保全規則が明治13年4月21日に布達された(明治11年「市街改租書類」)。この布達により崖地の所有権の明確化と石垣などによる崖地の保全を義務づけることになった。このために官有地については「右ハ外国人シロタ氏ヘ御貸渡可相成富岡町拾六番地海手崖地ヘ石垣築造ノ上御渡可相成」(明治12年「大火災関係書類」道文蔵)というように官の施行によっており、民有地についても、所有者がその保存の義務を有することが次の史料から理解できる。
保存御請書
当区
一 会所町壱番地甲宅地百弐拾九坪二分
一 仝 崖地五拾八坪七分
右今般御払下相成候私所持地附属石垣之儀ハ永延保存仕、決シテ破毀等致間敷候、此段御請申上候也
明治十七年七月廿五日
函館区末広町百四番地
地主 渡辺熊四郎 印
函館区長代理
区書記 林悦郎殿 (明治十七年「地所建物関(係脱カ)願伺届綴込」)
ちなみに当時渡辺熊四郎所持地、末広町104番地の山側の崖地は、明治13年に建てられた旧金森洋物店に使われている煉瓦と同じものが石垣の代わりに利用されている。
最後に明治12年大火後の街区改正を機に町の機能性が規定された事実にふれておきたい。それは船場町を倉庫地に定め、この後は一切居宅を取設ける事ができなくなった事である(明治13年1月27日「函新」)。その理由については「当港輸出入貨物漸次盛大ニ至候処、土地狭隘ノ為メ倉庫地トナルベキヶ所無之為メニ、輸出入貨物船積陸揚等往々渋滞ノ弊ヲ来シ、貨主等困難ノ情不少、依テ相当ノ倉庫地ヲ相設ケ、是等ノ弊害ヲ防キ人民ノ便利ヲ謀リ度、種々焦慮罷在候折柄、一昨十一年為基出札ノ節札幌並根室製造品格護ニ可相充倉庫地取極候様、御下命ノ趣モ有之候」(前掲「大火災関係書類」)という開拓使の判断があった。そして、その背景には「中浜町東浜町道路改正ニ付居住地減縮シ土蔵ヲ築造スベキ余地ナキヲ以テ地蔵町共有地其最寄官有地ヘ土蔵造荷物庫建築適当ナリ」(明治13年7月5日「函新」)という道路改正委員よりの意見と三菱会社および廣業商会よりの願出による働きかけがあった。このために居留外国人ブラキストンの家屋も買上られており、その他埋立などもして船場町は倉庫地として整備されることになった。
さて、2度の大火による街区改正とその他の諸相について説明してきたのであるが、ここで共通していえることは、これらの改正により都市景観が大きく変化したということである。つまり雑然としていた町並みの中に、計画的な視点がもり込まれたことを意味している。そしてこの点に都市形成における近代性を見い出したいのである。また、街区改正による効果は、火事に対する防備ばかりでなく、水道管敷設や馬車鉄道の運行などにみる、次の都市整備の受皿をも準備したことになるのではないだろうか。また、通りを中心とする横の往来に対し坂道による縦の往来も増えることになり、商人らの職住分離を誘引したことも考えられるのである。寺社空間は市街地の中心より排除された形で移転することにより、広い都市空間を提供することになった。いずれにせよ今回の街区改正は、近代的都市形態の基礎づくりをし、それに新たな都市整備が付加されることになる。