区営港湾改良工事

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函館港区営改良工事着手

 この工事はまず浚渫工事と、防砂堤建設工事から実施された。港内浚渫は明治30年4月着手、33年9月竣工、面積は12万9505坪で、その内訳は、大干潮平均面以下26尺の深さの箇所が7万9380坪、同じく18尺の深さの箇所が3万3500坪、同じく6尺の深さの箇所は1万6625坪であった。土砂の総量は、8万8496立方坪に1割を加える予算だったが、実際は、7万2330立方坪だった(前掲書)。この土砂の一部は弁天台地先埋立に、一部は若松町海汀埋立に使用、一部は海中に投棄した。
 かくして、この浚渫は、函館港の東北への拡張の基本となる埋立(臨港地区の土地作り、港湾の場造り)に一歩踏み出す契機をなしたわけである。まさに、函館港湾近代化への第一歩であり、商業資本の中から、産業資本が急速に生まれ出ることを示す港湾の変貌の表象でもあった。防砂提は、海岸町海岸(現在中央埠頭の、国鉄踏切から港湾合同庁舎までの部分。今はない)、堤の延長1500尺、終端水深は干潮面以下14尺に達した。本工事は29年10月着手、31年9月竣工(前掲書)。これが第1防砂堤である(付録地図・明治32年「改正函館港全図」参照)。なお、浚渫・防砂堤工事の経費は14万8117円であった(明治33年「函館区事務報告」)。
 次に旧弁天砲台地先の埋立・防波堤および船入場の建設が行われた。29年6月工事に着手し、33年9月竣工した。埋立工事は北端は旧砲台の地先から1200尺、西南端は山背泊の海岸に達する所の4万4547坪の地積、及び船入場1か所であった。防波堤は総延長520尺であり、船入場の左右の埠頭には港灯各1個を建設した(『函館区史』)。この埋立・防波堤・船入場工事の経費は47万6507円であった(明治33年「函館区事務報告」)。
 区営改良工事は、3つ合わせて総工費66万9092円余、このうち国庫補助はわずかに20万円、残りは函館区が負担した。当時の有力市民の中心を形成した産業革命前期の、函館商人資本の積極性と、前進性とを見ることができる。この改良工事に就いて、留意すべき点が幾つかある。
 (1)本工事の提案、実現のための市民運動-先に述べた通り、本工事は函館の有力商人が積極的に道庁(当時、政府を代表する)に陳情し、また設計計画を自ら作成し、資金も自ら準備して始めてできたもので、この点これから後の拓殖計画における港湾施設の官首導型の造成とは異なる。
 (2)港湾技術の蓄積-この工事の実施に至るまでに、肥田浜五郎(明治12年9月)、モルトル(明治16年)、桐野利邦(同19年)、メーク(同21年)、福士成豊(同21年)、広井勇(同23年)、古市公威(同27年・内務省土木技監)が調査研究に当たった。二十年代までは、モルトル、メークなど、イギリス、オランダなどヨーロッパ先進諸国の技師が来函、自ら調査し設計に当たったが、20年代、彼らについて、現実の調査設計の補助者、学生であった日本人技師が一本立ちを始めた。ここに、日本の港湾工業および技術が蓄積し独立して行く。メークはイギリスの港湾学者で岩村通俊北海道長官が委嘱し、明治20、21年の2か年、全道くまなく踏査し、報文にまとめ長官あて提出している。この時の調査に同行したのが道庁技師福士成豊、技手三上源蔵である。根室、石狩川水運開拓による石炭運搬、函館、室蘭、砂原、森、江差、小樽、岩内、熊石、福山、寿都を調査している。

広井勇博士 『北海道港湾変遷史』

 画期的なのは広井勇博士の出現で、ここに北海道各港の如き風浪激しく、かつ地形不利な場合における港湾建設技術が、現実の建設過程の中からの創意工夫、そして勇敢な努力によって飛躍的に発展した。この技術は、もっとおだやかな港湾建設の場合にも適用されるから、同時に日本港湾建設工学の創始となったといってよいのではないだろうか。広井勇は、文久2(1862)年土佐藩の下級士族の生まれ、明治10年満15歳で札幌農学校に学び、ウィリアム・ホイラーにつき土木工学を学び、明治14年卒業、明治16年渡米、ドイツにも留学、明治22年7月帰朝、札幌農学校工学部教授(土木工学全般担当)に任ぜられると共に、道庁技師を兼務、道庁港湾調査に当たり、本道港湾修築の大方針を定めた。明治28年6月函館改良工事監督、30年小樽築港事務所長専任となり、農学校教授を辞任した。32年工学博士の学位を受け、同年9月小樽築港事務所長のまま東京帝国大学教授に任ぜられた。以降も北海道港湾顧問として大正11(1922)年まで、北海道港湾建築に力を注いだ。大正8年東大教授を退任してからも、日本における港湾、橋梁技術工学の最高権威として学界の指導に当った。
 広井博士の弟子に小樽築港の伊藤長右衛門、中村廉次など北海道拓殖計画による港湾建築のそうそうたる工学者、港湾技術者が輩出している。その意味では日本の港湾技術は、明治28年、たまたま日清戦争の時期に当る広井勇の函館港改良工事監督就任時から創造され始めたといってよいのではないか。明治40年代に入り、日本の港湾工学技術は、世界的レベルに到達したと思われる。
 (2)工業の発達-いかに優秀な土木技師がいても、港湾の近代化には工業の発達が必要である。日本のセメント工場は明治16年政府貸下げのセメント工場を浅野総一郎が育て上げて本格化するが、北海道セメント会社が上磯に工場を設置したのは明治23年12月である。当時ほとんど手作業で終始した土木技術においても、港湾建設となっては、埋立、倉庫、掘割、運送機械、岸壁、埠頭など、さまざまの面において近代科学技術の導入が必要となる。つまり鉱工業の発展が必須の条件となる。北海道の港湾建設が産業革命の時期、明治20年代後半以降とならざるを得ない所以である。
 以上の区営改良工事に、ようやく道庁が重い腰をあげ、明治43年、北海道拓殖15か年計画が樹立され、技師岡本文吉が函館港調査を行い、第2・第3防砂堤建設および防波堤築設計画をたて、明治43年度着手、大正7年全工事を完成した。総工費137万1000余円。防波堤は、弁天埋立地北端、91メートルを離れた箇所から北1度30分西に向かい水深11メートル51の箇所に達する。延長918メートルの島堤である。西風には港内約300万平方メートルを被覆する。防砂堤は第2・第3共に延長485メートルである。