杉浦誠と開拓使運上所

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 函館は、維新後、外国貿易不振ということの外、設備不良、税関事務役人の無知無能もあり、明治9年9月、借庫として石造倉庫1棟、90坪を建設せられるまで、事実上放置していたといってよい。もっとも北海道の場合、所管が大蔵省でなく、開拓使であったが、開拓使は、外国貿易事務は何も知らず、一切を最期の箱館奉行、杉浦誠に一任していた。杉浦は、自分が奉行当時函館在住の各国領事と折衡して協定した慶応3年の箱館港掟則書により事務を処理していた。その開拓使運上所の事務執行ぶりについて、函館商工会議所発行の『函館経済史』は、次のように述べている。「輸出貨物は税関に送致されることなく、無手数料で荷主の倉庫で検査し、その結果、輸出免許が交付されて荷主の倉庫から直接船舶に輸送することが許された。輸入貨物もまた船卸証によって船舶から荷主の倉庫に陸揚げすれば、これも無手数料で出張検査をしたので、荷主からすれば極めて便利な方法であった。右は幕府時代、幕吏が商品を運上所内に送致する事を忌避したためで、即ち、官庁は文書事務に従事する処であり、商品を庁内に出入させ混雑を招致する如きは、俗臭多く所謂当時のお役人思想からは、避くべきであるというにあったのである。爾来、大蔵省では全国関税事務の統一を期するため、明治八(一八七五)年、函館税関を開拓使の所管から大蔵省の直轄とし、輸出入貨物の取扱を各税関と同一とし、輸出入貨物の取締上についても不備の点を改めたのである。即ち年来の慣習は、荷主の側にとって極めて便利であるが、税関内に貸庫及び上屋の設備がない事を口実に、外人の中に貨物は税関が保管されたいなど難題を申出る者もあって、当局が処置に窮し、上屋及び借庫の整備に迫られ、明治九年西上屋一棟百二十坪(四三〇平方メートル)を建設し、翌十年にも石造の貸庫一棟九十坪(三〇〇平方メートル)を建設して一応の設備が出来たが、その後明治十八年に東上屋一棟を増設した」。
 この時建設した借庫は明治9年創設以来、納税未済の直輸出入品を保管するものであるが、そのうち直輸入品は極めて少なかった。明治10年10月、イギリスのブラキストン・マール社の申請にかかるイギリス帆船ヒルダ号が台湾より輸入した赤砂糖250俵、11年11月、同社よりアメリカ帆船シイグネット号を以て輸入したラッコ皮2函90枚で、せいぜい年に1回の入庫に止まるなど庫内が、がらがら空いているので、明治10年12月庶庫制を実施し(神戸税関にならう)、内外人民の願いに応じ内国貨物の蔵置を許した(函館税関『北海道倉庫業』)。90坪のうち、60坪を庶庫、30坪を借庫の用にあてた。明治30年3月法律第15号、保税倉庫法が発布せられて以来、30坪の石造倉庫第1号をこれにあて、32年8月、関税法の実施によって借庫は消滅した。この庶庫制は便宜的措置ではあったが、それに対する規則は、のちの営業倉庫規約の一つの先例となった。