函館から森村まで

630 ~ 632 / 1505ページ
 『開拓使事業報告』第2編から、おおまかに新道建設の経過説明をしてみたい。その前に簡単にこの道路の概観を述べると、起点は函館でここから森に至り、森から室蘭までは海路、室蘭から苫小牧、千歳を経て札幌に至るもので、延長57里14町30間(森・室蘭間の25海里は陸里に改め合算)であった。この開削により函館は札幌並びに沿道地方の咽喉となり、以後出入の旅客や貨物を増加させたのみならず、工事中にも多額の金を函館に落として、その繁栄を助けた。また沿道の諸村落の開拓を助け、諸村落の開拓はさらにまた、函館の発展を助ける一因となった。たとえば蔬菜にしても、従来は青森、新潟、東京などから移入して、近村のものは甚だ少なかったのだが、この道路の完成で年々増えていったのである。
 さて工事の経過についてであるが、まず開拓使のお雇い外国人であるアメリカ人アンチセル(Antisell,T.)とワーフィールド(Warfield,A.G.)の2名に、明治4年9月、函館・札幌間の地形、港湾を調査させ、そして函館から札幌に至るこの新道開削を議決したことに始まる。5年1月、権判官榎本道章(箱館戦争当時の会計官)が函館から東京に行き、開削着手順序および経費予算を禀議し、兌換証券250万円を発行して経費に充てた(この金は道路以外にも使用した)。翌2月にワーフィールドを「陸地測量兼道路築造長」に、クラーク(Clark,J.R)を「同補助兼通弁官」に、ワッソン(Wasson,J.R.)を「測量長」に任じ、人夫は東京の政田嘉兵衛外3名に受負を命じ、東京、伊豆、木曽、日光、南部などで募集した。また委員を鹿児島に遣わして土方を徴募した。なお北海道庁発行の『北海道道路誌』によれば、人夫は、「徴夫」と呼ばれたようで、とくに鹿児島徴夫の活躍はめざましく、明治6年の有名な江差漁民暴動の鎮圧という警察官の代行をしたのは注目に値する。さて、官吏24名と本州各地で募集に応じた職工人夫475名は、汽船東京丸に乗り組み2月28日横浜港を出た。ところが3月3日東京丸は尻屋岬沖で難破沈没し、米、塩、器具などはほとんど全部流失し、ようやく乗組員だけは免れて函館に着いたのである。なおこの時尻岸内村から人夫数十名、漁船数隻が出て救援した(『北海道道路誌』)。同月4日黒田開拓次官が来函し、旧来の農政、工業両掛を併合して新道建築掛とし、榎本権判官を建築掛長に任じ、杉浦判官、松平5等出仕をその事務にあたらせた。東京丸の難破で諸品が流失したので、函館産物掛漁業場所の仕入残品や市中在来の道具類を買入れて、一時欠乏を補い称名寺を炊出場とした。工事は亀田村一本木を基線と定め測量に着手し、遂次各所に人夫小屋などを建築した。これにより函館の物価は大いに騰貴し、商売繁盛し、益々の繁栄をみた。明治5年4月峠下までの測量を完了し、5月七重村までの開削が終わった。修理に用いた土砂は元津軽陣屋および亀田の万年橋近傍から堀取り、日々函館近在の馬数百頭を使って運搬した。6月、森までの測量を完了、7月ついに函館森間11里18町の新道が落成した。
 ところで『北海道交通史』によれば、この函館~森間は「函館街道」といい、札幌~室蘭間は「札幌街道」でこれらを合わせて「札幌本道」と称されることになったという。