函館街道の馬車会社

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 財政困難の中、2500万円もの予算を組んだ札幌新道は、函館~札幌間にアメリカ大陸西部開拓使の華、駅馬車を北海道の地に走らせる旅客車輌道たらんとした壮図から出たものではなかったのだろうか。少なくともアメリカ人を「お雇い外人」にした黒田清隆の理想は、そうではなかったのだろうか。
 結果はかなりの成果を収めたといってよい。旅客需要の多い函館~森間の函館街道と、札幌~小樽間街道に旅客馬車が走り、のち札幌~室蘭間馬車交通の増強を見ている。開拓使編『北海道志(下)』は、次のように、馬車会社開業を報じている。
 
函館管下馬車会社ハ、明治五年函館札幌ノ本道開ニ当リ函館区鶴岡町ニ設ケ旅行ノ便ヲ図リ、函館森村ノ中間峠下村ニ旅館ヲ築キ六年二月此ニ駅逓ヲ設ケ、五月二一日森村ニ馬車会社ヲ築キ十月九日運輸ヲ開キ規則ヲ設ク

 
 その規則によると、定日は午前7時函館発11時峠下着、午後1時峠下発、5時森村着。逆は森村発も午前7時、午後5時函館着である。馬車は、大と小とがあり、大馬車は定員10人、小馬車は定員8人である。途中の休憩所は、函館~峠下間は、亀田、桔梗、七重、峠下~森間は、峠ノ上、蓴菜沼、宿野辺、馬立場、追分。宿野辺で馬を換える。荷物運賃は柳行李、莚包、叺入の物品、1貫目~5貫目までは、乗客15歳以下賃銭の半額に準じ、5貫100匁~10貫目までは同15歳以下の者に準じ、10貫目100匁より15貫目までは、15歳以上の賃銭に準じた。ただしあまり重いものや竿類は運搬しないこととされた。乗客賃銭は表5-15の通りであった。
 
表5-15 馬車会社の乗客賃銭
 
15才以上
15才以下
馬車貸切
函館

峠下
 
68銭7厘5毛
(1里に付12銭5厘)
 
55銭

6円87銭
5厘

5円
50銭
峠下

 
75銭
 
62銭5厘
7円
50銭
6円
ただし3才以下は無賃、『北海道志』下による

 
 この馬車会社は、明治7年1月7日「姑ク発車ヲ止ム」(前掲書)ことになった。利用客が少ないためである。開拓使は、明治12年6月、不振挽回のため、函館、七重に陸運改良係を置き、道路を修繕し、13年3月、函館馬車会所の旧地に事務所厩を建てた。そしてこの年6月に地蔵町の松田清吉(万里軒)が、函館~森間の馬車運行を始めた。函館から森までの乗車賃は10銭であった(13年6月11日「函新」)。また、恵比須町の菊地末作も、臨時に森まで馬車を運行させていたが、14年9月9日の「函館新聞」に、東京から新馬車を取り寄せ、以後毎日往復するとの広告を載せている。この菊池の馬車は評判がよく繁盛した。また、函館森間で「郵便御用」もつとめていたが、さらに札幌までの御用も命じられて、その間を31時間で結んだ(18年4月26六日「函新」)という。
 一方、函館市内だけに運行する「市中乗合馬車」もあった。明治16年6月7日の「函館新聞」に、その開業広告が出ている。広告主は、相生町の山口伝之丞で、営業区間は(1)弁天町から、末広町、地蔵町鶴岡町、若松町、海岸町まで(2)台場から、鍛冶町、富岡町、会所町、相生町、蓬莱町、谷地頭町までの2系統であった。運賃は各町間ごとに1銭であったが、谷地頭町へは4銭増し、若松町へは1銭増し、海岸町へは2銭増し、そして夜間は5割増しであった。こういった市街地を走る馬車は、後述する馬車鉄道ができるまで存続していた。