移入米の取引

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 移入品のうち、最重要品は呉服太物とならんで、主食である米であった。「明治二十年中函館商況一班」によると、函館の米穀酒塩商は253戸を数えている。このうち、越後あるいは北陸沿岸の各産地から米を積んで入津する船手と取引する主要な米商(船手米商)は、西浜町の渡辺佐兵衛、同町の菅原治郎吉、同町の太刀川善之助、同町の渡辺弥九郎、仲浜町の筑前善次郎の5店で、これら船手米商は仲浜町界隈に集中していたらしい。1店の年間の取扱高は5万俵から10万俵にとどまり、委託品が多かったという。この年の三井物産函館支店の取扱高は7万9000俵(加賀米3万俵)、北海道共同商会が2万1000石(5万2500俵)であり、これと比較すると、その取扱高の多大であることがわかるであろう。
 市中の搗米小売店の第一は相生町の宮後紋次郎で、1か月の販売高は、1000俵、地蔵町、西川町に所在する搗米小売店のうちの1等店で600俵ほどであったという。
 明治30年代に入っても移入米の重要性はかわらず、明治38年6月刊『殖民公報』26号所載の「函館小樽二港の輸入米」によれば、本道で需要する米は、1か年約120万石にのぼり、その大部分は他府県からの移入によってまかなわれた。移入米の価額は本道の管外移入品総額の3分の1から4分の1を占めていた。
 この膨大な移入米の過半は、函館、小樽を経由したが、この頃になると、函館がやや減少の傾向を示し、逆に小樽は年々増加を続けた。函館の商業区域内にあった函館近傍の旧開地では畑地の水田への改良がすすめられ、土地の住民が、これらの産米を需要したのに対し、小樽の後背地をなした石狩や天塩の原野では開拓民の流入が続いていたからである。
 移入米は北陸から奥羽地方にかけての産米が中心であったが、商取引や交通の事情によるのであろうか、函館と小樽では若干その仕出地が異なり、函館は酒田港が中心で、新潟、土崎などがこれに次ぎ、小樽は伏木港が中心であって、新潟兵庫酒田、境、土崎が、これに順次続いていた。
 函館港での移入米の取引については、明治42年1月刊の『殖民公報』46号所載の「函館における米の集散」が詳しい。府県各港との取引には注文買と委託売買の2形式があり、通常は相半ばしているが、景気がよい時には注文買が多くなった。委託売買については、函館米穀委託商組合が結成されていたので、その定款にしたがって取引された。函館米穀委託商組合の前身は、明治19年に創立された函館米穀問屋であり、明治33年に委託商組合の名称に改められた。この42年ころの組合員は40名で、その有力なものは、太刀川善吉、今井定太郎、合名会社新商店、橋谷甚右衛門、北海道産業合資会社、小川弥四郎、横山喜一郎などであった。