広業商会の営業が非常に限定されたものとなり、商品を購入して輸出するという体制が制限されたのであった。広業商会が営業を開始すると、荷為替や委託販売の利用の度合いが低く、このままでは、広業商会の存亡さえ係ってくるとして、笠野は2度にわたり上申書を提出し業務範囲の拡大を訴えた。その結果荷為替業務の国内での適用、荷為替の利用対象者に居留清国商も含める、委託販売の国内適用、そして広業商会独自の買付が認められた。こうして居留清商の金融支配を脱するために内国商へ貸与する道などが開かれていった。
広業商会と刻昆布製造場 『北海道独案内商工の魁』[1]
広業商会と刻昆布製造場 『北海道独案内商工の魁』[2]
9年7月に東京に広業商会が設立され、次いで上海に支店が設けられ、横浜、神戸と支店綱が拡大されるなか、函館支店は同年10月に設置された。函館の支店長には西村貞陽の周旋により武富善吉が就任した。武富は明治8年に西村貞陽が清国視察をした時に笠野とともに同行しており(明治8年「東京出張所文移録」札学蔵)、その関係から支店長となったものである。内澗町39(翌年類焼により船場町に移転)に設置された函館支店の創業時の構成は不明であるが、12年末での同店の組織をみると支配人の下に検査役(この職制は和田元右衛門-漁場請負人の使用人、代言人、江差区裁判所判任官等を歴任-を迎えた時に新設したものらしい)がおり、その下に更に商事掛、計算掛、蔵掛の3掛からなり、各掛は常雇と臨時的な雇用とに二分され、この他に各産地に派出されている職員が20名ほどおり、総勢30名余からなる当時の函館としては最大手の会社であったといえよう。