償還物や税品の輸出は広業商会が担当したものの、開拓使時代に比べると扱い高は縮小された。資本金返済などの命令を受けた広業商会は仕込み資本ともいうべき資金繰りが従前のように政府から保証されず、自己資金によって対応せざるをえなかった。そして資金貸与は県の扱いとなり生産者は広業商会と特定の関係ではなくなり、再び清商が買い付けに乗り出してきた。広業商会は十六年二月に東京本店を函館に移すが、その背景には扱い高の減少との関係があったと考えられる。また清国を襲った不況やそれに追い打ちをかけるような十六年末の清仏戦争を契機としての商業機構の縮小そしてそれにともなう金融事情の圧迫などが清国市場での昆布不捌といったことももたらした(「商況統計表」道文蔵)。これは海産物価格の下落となり、また翌十七年の経済界自体が沈滞状況にあったことも同社の経営に大きく影響したのであった。なお十八年二月六日の「函館新聞」によれば、十七年中の広業商会の扱った昆布は六万石も扱っているが、そのうち税品一万二〇〇〇石、販売品一万石で、これらのうち上海に輸出した分は三万七五〇〇石となっている。上海における商況悪化や従来持っていた同市場での販路をせばめて輸出の道が閉ざされていることがうかがえる。私企業として活動範囲を拡張しようとした試みのひとつに千島の硫黄鉱山の経営などをあげるこができよう。なお十年以降の上海における広業商会と清商の取扱個数高は表6-31のとおりであるが、十五年以降は同地の総輸入量に対する広業商会の取扱高は三〇㌫前後と低落傾向を明確に示しており、清商は再び昆布輸出の主導権を握ることになった。
明治二十年に北海道庁は従来の海産物の物納制を廃止して金納による海産税を導入した。このため広業商会の余命を保っていた税品昆布の取扱の道を失った。これと前後して広業商会の改組が図られた。全国各地の店舗を分離独立させ笠野吉次郎をそれらの総轄者とした。これは各店の支配人が自立した経営を求めたためであり、従って笠野の総轄者という名義も形式的なものにならざるを得なかった。函館の場合は本店ではあったものの検査役等を歴任した和田元右衛門が実質的な責任者の位置についた。二十一年一月十八日の「函館新聞」は「当地同店の業務は前年に比すれば其半ばにも及ばず去ど実収入は却て多く資本の二割に相当したり……斯く隆盛の途に向いたれば当港商人は同会を信用し支那人へ於けるよりは昆布百石につき十四、五円安値にても同店へ売りこまんとする傾きあり」と報道し広業商会の信用がまだ失われてない印象を与えているが、すでに同商会は営業停止寸前のところまでいっていた。そしてこの二十一年六月三十日をもって函館の広業商会は閉鎖されたのであった。ちなみに上海の広業商会は二十三年七月の時点で「今殆んと残務を取扱ふにすきす」(『清国通商綜覧』)といった状態にあったが、その後の経緯は不明である。広業商会の事業の不振は資本金貸与に対する償還不足といったことのみならず、経営の放漫、また社内における不正行為などや輸出不振に帰せられるべきものであった。
年 次 | 輸入総高 | 広業商会 | 清国商人 | 広業商会 の比率 |
明治10 11 12 13 14 15 16 17 18 | 90,676 135,373 136,837 144,172 150,727 96,164 88,360 97,002 126,310 | 24,156 63,641 79,684 62,310 66,356 27,784 26,989 28,033 33,719 | 66,520 72,332 57,153 81,682 84,371 68,380 61,373 68,986 92,591 | 26.6 47.0 58.2 43.2 44.0 28.9 30.5 28.9 26.7 |