函館支庁付属船

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 開拓使は主要幹線の定期航路とは別に、不定期航路として札幌本庁や各支庁に付属船を所轄させて、用途に応じて道内各港間へ就航させている。所轄船は年次で異動があったが、明治11年当初には大幅な交替があった。同年1月7日付の函館新聞にその報道がなされている。それによれば、函館支庁所管として函館丸、矯龍丸、弘明丸、鞆絵丸、石明丸、白峰丸、辛未丸、札幌本庁が稲川丸、豊平丸、空知丸、乗風丸、根室支庁が沖鷹丸、択捉丸、千島丸、そして東京出張所が玄武丸となった。なお4月2日付の「函館新聞」には、函館支庁の管轄となり、函館港を定繋港とするこれらの船舶によって近県へ運輸を盛んに乗客輸送などの便宜を図る趣旨について連絡をしたところ近県からは、それに同意し実地取調べのうえ回漕の依頼などをする旨の回答があったと報道されている。12年には開拓使の青函航路が取りやめられたので、弘明丸は他へ所管替えとなり、その他の船舶も一部所管が変わった。函館丸、辛未丸、矯龍丸の3艘となり、翌年には函館丸、矯龍丸、白峰丸が函館支庁所管となっている。
 
 表7-6 開拓使付属船の出港状況
事項\年月
11.1~611.7~1212.1~6


使


府県行汽船
35
55
44
帆船
道内各地汽船
37
43
25
帆船
5
4
3






府県行汽船
13
10
22
帆船
1
道内各地汽船
10
13
5
帆船
1
2
4
合計
汽船
95
121
96
帆船
6
6
8

 明治11年度「函館商況」(道文蔵)より
 
 ところで付属船は函館の海運界において、どの程度の役割を果たしたであろうか。表7-6は明治11年度「函館商況」(道文蔵)に記載された函館出港の付属船の11年1月から同12年6月までの動向記録である。ここで運漕社の分もとりあげたのは、同社が6年に函館に開業して開拓使付属船の貨物積載や乗客を扱っており、同社扱いのなかに付属船の分も含まれているからである。
 これを同時期の三菱会社船と比較してみると、三菱は出港船数141回、乗客1万217人(同前)とあるので、乗客輸送に限定すれば付属船の比重の高さがわかろう。両者を対比すると、三菱会社の航路は道外便が大きな比率を占めているのに対し、付属船は道内・外の比率はほぼ均等である。つまりそれだけ道内海運における役割が大きかったことになる。海運に依拠する函館にとっては、こうした付属船の存在は大きく、後年の開拓使官有物払下事件が生じた時に函館市民が付属船の払下を求めたのもこうした背景があったからであった。
 開拓使が函館を発・帰着港として定期・不定期の航路を開いていったことは函館を道内の物資集散地としての基礎固めを補完する上で大いに作用した。また1船単位での民間需要に応じる体制も取った。函館商人はそれを最大限に活用したが、一例として明治6年9月に高田祐三郎が付属船安渡丸をチャーターして厚岸昆布の積み取りをしたことを挙げておこう(明治6年「内澗町丁代 亀井勝蔵扱書類」)。