集散基地としての函館は、主に道内の海産物を集荷し、これを本州市場に送り、一方では本州諸府県からの消費物資を集め、これを道内へ転輸することで経済的に成り立っていた。三菱は当初こうした函館の一つの機能である本州諸港と函館間の物資流通に重点を置いたが、明治11年以降道内の航路に進出しはじめる。
それは次のような背景があった。三菱は明治10年に勃発した西南戦争で軍事輸送に従事して450万円の利益を上げたのであるが、汽船を購入することで新たな負債を生じ、また戦争終結により搭載荷物に対する船腹過剰の事態に至った。国際線の横浜・上海間の航路で10年11月から11年2月までに7万円余の欠損を生じたほか、横浜・函館間も1か月1万4000円の欠損、さらに日本海経由の大阪・函館間は非常に利用が少ないという状態であった。こうして経営悪化という状況下にあった三菱は打開策として貨客輸送の獲得に積極策をとりいれた。とりわけ北海道関係航路への広範な進出と顧客獲得のための方策を導入した。欠損航路の収支改善のために北海道在住の荷主とむすびつき本州への輸送独占を図ろうとしたのである。このため函館と本州諸港間、あるいは函館・横浜間の路線そして函館と道内各港との航路はすべて函館発着となり、道内向けの物資は本州から1度函館に回漕され、また本州向けの本道産物も函館にまず集荷され、それから函館で積み替えられて本州諸港に出荷されていくようになった。これは函館の中継港的性格を一層強化し、また航路の開設と商権形成が不可分のものとして作用していったのである。
三菱の運航状況をみると道内便として始めての便は明治8年10月の小樽に向けて出港した敦賀丸であり、同じ年では他に数便数えるにとどまっている(明治8年「函館支庁日誌」道文蔵)。また道内の荷主(函館では広業商会や美濃徳三郎など)や開拓使の用務に応じてチャーター便や臨時便など就航させているが、営業上ではあくまで函館と対府県航路に重点が置かれていた。ところが11年3月には、北海道内航路の貨客運賃を定め、本格的に道内航路へも進出することになった。この時点での航路は函館-根室、函館-厚岸、函館-寿都、函館-江差、函館-小樽、厚岸-根室、江差-寿都の7路線であった。11年の「函館新聞」によると、函館-厚岸・根室間の就航が特に顕著である。輸送品は両地の昆布であり、その昆布漁業経営に必要とされる物資がおもであろう。9年に函館に設置された広業商会は10年2月に三菱と運賃割戻の特例を定め一手積みを図ったことがあることから、道東産昆布の大量輸送のための航路設定といえよう。また函館にいったん集荷された昆布はさらに三菱の汽船により横浜あるいは上海へと輸送されていくことになる。この他には函館・小樽間の動きも目立っている。これは小樽が札幌の外港として物資の中継基地として成長途上にあることの反映であると思われる。航路拡張と同時に11年には小樽に、13年には根室にそれぞれ支社を設けた。
この道内航路は翌12年4月には路線の拡張が図られて、航路別運賃が定められた。新航路の設定により道内各地と函館との関係は密になり商業圏の確立にその一助を果たしていった。特に西海岸の鯡〆粕を中心とした鯡製品は従来は各商船が直接生産地に航行し、産地において買い付けをしていたものが、11年以降函館への輸送が増加するようになった。これは三菱汽船によるものであり、また同時に出荷市場も大阪のみであったものが東京に出荷される比重も高くなっていった(明治12年『勧商局雑報』)。また和船や西洋型帆船に比べて高運賃であったが、むしろ汽船利用による市場への輸送日数の短縮が荷主に高利潤をもたらしていった。12年11月8日付けの「函館新聞」にはこうした状況を伝える記事が掲載されている。それによれば択捉産の鮭鱒は従来は和船による函館集荷が行われており、このため普通は収獲物の3分の2は産地囲い荷となり、翌年函館に集荷され本州市場へ出荷されていた。ところが船場町の海産商仲栄助は同地の漁業経営者栖原小右衛門と鮭鱒の売買約定を交わし、三菱の汽船を利用して年内のうちに本州出荷を実現した。たとえ高運賃であろうとも、旧来の時間的制約をとりはらい、市場への早期出荷がより多くの利潤を上げることを汽船利用が可能としていったという1事例を見ることができる。