東京風帆船会社と宮路助三郎

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 宮路は13年に設立された三井系の東京風帆船会社の発起人の1人であった。東京風帆船会社は三井物産会社社長の益田孝が第一国立銀行の渋沢栄一の協力のもとに作ったものである。三井はそれまで自社扱い商品の多くを三菱の船舶に託していたが、三菱の横暴に苦しめられている地方の富豪らを糾合して対抗勢力として興したものであった。
 風帆船会社の設立に先立つ13年に益田は来函し、株主募集を行った。この時函館でいちはやく応じたのが、宮路であった(13年10月5日付「東京経済雑誌」)。宮路は三菱会社の指定を受けて、大町において積荷問屋を経営していた。しかし三菱の常日頃のやり方に不満を覚えていたのか、益田の呼び掛けに応じ、7月25日を以て積荷問屋を休業し上京した。宮路の動きに対し三菱は積荷問屋の指定を解除する旨の新聞広告を掲載した。8月に帰函した宮路は東浜町に新たに宮路回漕店を開き、風帆船会社の業務を代行した。ちなみに三井物産は13年に函館に支店を設置するが、当初はこの宮路回漕店に間借りしている(24年8月29日「函館新聞」掲載の寄書「驚天居士 与木村正幹書」)。宮路に歩調を合わせるように函館では高橋七十郎、小林重吉が風帆船会社の発起人に加わり、後に杉浦嘉七、田中正右衛門の最有力の豪商も株主となっている(『渋沢栄一伝記資料』)。こうして三井の意向を受けた宮路が奔走して反三菱的雰囲気のなかで会社設立に係わった。さらに益田来函時には函館新聞が3回にわたり「帆走船会社の創立を論ず」と題し、三菱会社のこれまでの功績を一定程度評価しながらも、北海道人民に対しては益するところがすくなかったと論じて、一方では三井がこれから興そうとする東京風帆船会社が「人民カ意思ニ適合シタル」ということから北海道への進出を歓迎する論説を掲載した。三井所有の船舶はこれ以前から函館には入港しており、風帆船会社の発起人あるいは株主として参加した函館の商人は何らかの係わりがあったと考えられる。11月に風帆船会社の神倉丸が初めて函館に入港するが、こうした動きを中央紙の「中外物価新報」は「嘗て函館港へ向け出帆せし風帆船会社の神倉丸は、鮭・鱒・昆布等を積み、一昨日無事に帰港したり、今回船の該地に赴きし景況を聞くに、是迄風帆船にて保険を附し得る船は少なきを以て、随て該地諸人の信用も厚く、積荷頗る多くありしゆえ其過半は積残し来りたりと云う」(『渋沢栄一伝記資料』)と伝えている。
 東京風帆船会社は13年9月に真砂町の海軍省用地の一部を倉庫用地や船舶修理場として借り受けるが、地所拝借願書には風帆船会社発起総代として三井物産函館支社支配人松岡譲とともに宮路助三郎が連署している(明治13年「函館支庁文移録」道文蔵)。同社は当初宮地回漕店を代理店として、その後北海道運輸会社に代理店業務を依頼している。