汽船の運航状況

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 それでは日本郵船時代になってからの汽船の全般的な運航状況はどうなったであろうか。当時の「函館新聞」から採録してみよう。まず20年の汽船の出帆回数をみると1274回で、このうち日本郵船は807回と63パーセントを占めている。噸数は不明であるが、郵船以外の汽船は小規模であるので、噸数での比率は艘数よりもはるかに高い。郵船の航路別内訳を見ると荻浜・横浜経由の神戸定期便は4艘体制(就航船は1200トン平均)で150回、青函定期便が2艘体制(同200トン平均)で345回とほぼ毎日出港している。道内各地行きの便が253回、海外便としては上海行きが7回、天津が1回であり、このほかに対本州行きの不定期便が51回であった(21年1月15日「函新」)。
 郵船による貨物、乗客の輸送は函館から本州へと、本州から函館へという両側面を持っているわけであるが、北海道の海産物を主とする輸送と米を中心とする移入品輸送にも大きな比重を占めるようになった。例えば米の輸送でみると23年の『函館区統計表』に同年の米の函館移入が総数で32万5700石でそのうちの31万9700石が日本海経由で搬入されている。その主な仕出地は越後、越中を中心として、秋田、庄内が次いでいるが、従来はこれらの航路はいわゆる北前船によるものであったが、和船自体による輸送は完全に衰退期に入っていた。具体的には23年の『イギリス領事報告』には日本の汽船、西洋帆船、和船と船種別の出入り状況を噸数で掲載しているが、入港についてみると汽船が2267隻、80万9319トン、西洋帆船が329隻、31万282トン、和船が1641隻、4万638トンとなっている。和船は隻数だけみると非常に多いのであるが、噸数比較で分かるように、たとえ和船が山積をして表示噸数より上回り、汽船は積載容量が実際より下回るとしても、その差は歴然たるものであった。西洋形帆船の出入りもその噸数においては汽船の比ではない。汽船による貨物および船客輸送が大半を占めるという時代状況であったので、日本郵船の占める位置が前の三菱、共同運輸の時代と比べて一層、その比重を大きなものとしている。従って日本郵船の定期、不定期便を問わずその就航動向が函館の経済界に果たした役割は大きかったのである。
 22年では汽船入港数は2094回で、このうち郵船の船は855回であった(23年3月13日「函新」)。その他は函館汽船会社(頭取田中正右衛門)、福山商船組支店(支配人岩田三蔵)、江差江運社支店(支配人杉村福松)、金森回漕店(支配人池田直二)、運漕社(三上保五郎)、平出回漕店(平出喜三郎)、鈴木回漕店、山崎回漕店、北見商会代理店、渡辺回漕店などの各海運会社の所有船や回漕店の扱いによるものであった。これらの回漕店の扱う汽船船主は函館、道内各地、道外と非常に多様であった。残りの1239回の航海に就航したのは46艘であり、これらの小型汽船の就航度数が非常に多いことが分かる。このように小型汽船の増加は特に顕著となるが、このころはまだ郵船の営業自体には大きな影響を与えていない。すなわちこの年の同社の成績をみると次のとおりであった。
 収入貨物115万5893個で噸数は7万4347トン、運賃は22万3000円余、一方船客は3万5124人で、その運賃は9万8575円で、合計32万円余と前年より1万円近く増加している。これは商品流通の増加にもたらされたものであるが、非常に好景気に支えられて伸びたものである。
 こうした好況感に支えられた郵船では23年7月1日から函館・横浜・神戸の定期便(毎週2回)を増船することにした。従来の同航路は長門丸、薩摩丸、和歌浦丸、新潟丸の4艘で就航していたが、2艘(東京丸、山城丸)が加えられ6艘体制とし、毎週3回の便とした。同年7月6日の「函館新聞」には「…先般定期船二艘を増加する時には横浜より当港へ向ける荷物は六艘の定期に搭載する程あるやと社員の気遣ひせしにも拘らず愈実施して視れば随て荷物増加し尚船の不足を感ずる位なり…」と報道している。
 23年の汽船の函館入港数は「函館新聞」によれば2244回である。そのうち約半数が郵船としているが、『イギリス領事報告』ではこの年の状況を次のように述べている。
 
日本の船舶は船数、噸数共に急速に増加している。その主なる要因は郵船の大きく、よく整備された船舶が世界の他社の汽船と比較しても、いかなる点でも見劣りすることのない最高級のものであるということである。これらは函館から兵庫まで西周り経由で年間約三〇回往復し、また道内、上海に直接頻繁に航海している。この他に兵庫、小樽、青森各線があり、定期運航している。荻浜、横浜経由の兵庫航路は週に三回、六艘の大きな海洋航行船で行われ、年間一三一回入港し、一七万六六七七トンを数え、道内へ三万三二〇八トンの貨物、一万二七五二人の乗客を運び、七万三八八一トンの貨物、九八五二人の乗客を運び去った。小樽への便は現在週に二度、わずか八八回の往復便であった。往復便の総噸数は一〇万一三〇二トンで約一万六〇〇〇人の乗客を運んだ。青森までは毎日運航が持続されており、往復便の総噸数は一二万八〇〇〇トン、約二四万人の乗客を運んだ。

 
 このように函館における郵船の輸送力が占める比重が非常に高いことがわかる。また本州便のうちで横浜・神戸便と青森便の比重が高い。また道内航路では小樽便が青函航路に匹敵する輸送をしている。横浜・神戸航路はこの時点で物流の面からいえば最終終点の神戸よりも横浜までの比重が高いのであるが、これらの航路はいずれも函館を結節点としていたため函館が海運上で非常に重要な意味を持っていた。ところが、こうしたものを根底から突き崩すような海運航路の再編という動きが次第に見られるようになってくるのであった。