同行の営業状況

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三井銀行函館出張店

 
 開業当初の三井銀行の営業は、諸官省寮使、府県の官金取扱業務と、為替・両替・貸付などの一般的金融業務からなっていた。とくに前者が重要で、銀行の創立手続を進める過程で、この点を配慮してきた。というのは、政府、県が第一国立銀行の設立にともなって、三井組から大蔵・内務両省の為替御用を引揚げ、政府出納寮直扱いとしたこともあって、三井の官金取扱停止が必至とみられていたからである。
 この処置を受けた場合、三井組としては大打撃となり、民間金融に多大の混乱を引起しかねないので銀行創立後も3、4か年間従来どおり官金取扱の継続方を政府に嘆願した。これは明治9年3月、政府の了承するところとなって、創立後も官金取扱業務を継続できることになった。当時、金銭出納を取扱っていた官署は、7省、1使(開拓使)、3府、14県、4税関(函館税関を含む)であった。三井銀行はこのような官金取扱業務に対応するため、先にあげた函館、札幌のような各地に多数の出張店を設立したのである。
 しかし、明治14年10月、松方正義が大蔵卿に就任し、貨幣整理とインフレーションの収束に着手した。この政策の中核となったのは日本銀行の創立(15年10月10日開業)であった。日銀の重要業務の一つが国庫金取扱で、これまで三井銀行が行ってきた為替方は全廃された。三井銀行は明治15年12月に大蔵卿あてに内願書を提出して、明治19年6月までの官金取扱返上期日も、時々の実況によって特別の保護を与えて欲しいことなどを嘆願した。官金取扱の減少は、銀行創立時すでに予測されていたが、明治15年末には民間預金約540万円に対し、官金預り高は681万円余で、官金預りの比重はきわめて高かったのである。だが、内願書は政府の認めるところとならず、明治16年12月末から17年6月末日にかけて、民間預金の1000余円減の横ばいに対し官公金預り高は94万余円の激減となった(『三井銀行一〇〇年のあゆみ』)。
 
 表8-2 明治9年 自7月1日至12月31日 函館出張店総精算目録・預貸の部 (単位千円、洋銀千ドル)
預 之 部
貸 之 部
種類
金額
種類
金額
開拓支庁
御預り
1,338
(洋銀46)
開拓支庁上納高
1,135
(洋銀35)
電信局
御預り
34
(洋銀2)
電信局 同
32
(洋銀2)
船政所
御預り
20
船改所 同
19
税関御預り
14
(洋銀26)
税関 同
13
(洋銀26)
裁判所御預り
4
裁判所 同
3
各所一時預り
22
利金貸金
15
民金無利息預り
両替預当期益金共

3
無利息貸金
並両替貸共
4
(洋銀1)
各店為替預り
821
(洋銀27)
開拓支庁繰換金
14
 
 
各店為替貸
831
(洋銀20)
2,256
(洋銀101)
 
2,166
(洋銀84)

 『北海道金融史』より作成.単位以下4捨5入
 
 さて三井組が開拓使の官金を取扱った業務は、明治6年から開拓使の指令(現金取扱は札幌を除く)によってはじまっている(『開事』第5編)。その後、各関係機関の定額金・納付金その他金銭為替・出納等の一切の業務を取扱い、その取扱規則は、明治11年8月8日に東京三井銀行へ下付した命令書によって定められた。
 この実状は、三井銀行函館出張店の成績(明治9年7月1日より同年12月31日まで)をみれば表8-2のようであった。
 この表による原田一典「三井銀行と開拓使」(『日本歴史』164号)の分析によると、総預金額に対する各種預金の比率は、官公預金は60.5パーセント、為替預金は36.4パーセントとなっている。民間預金は0.1パーセントとなっている。このように、預金業務のうちで官公預金の占める比率がかなり高いといわれよう。なお、開拓使の預金は、前出の命令書の第12条に函館支庁は金5万3000円、東京出張所は金10万円をもって極度とすると定めている(『布類』下編)。このように、東京本店取扱分が、函館出張店取扱分のほぼ倍額に達していた。
 では官公金取扱を担当してどれ程の利益があったかといえば、明治9年における函館出張店総精算目録によると、官金取扱手数料は735円にすぎない。にもかかわらず、官公金取扱御用就任に狂奔したのは、商業資本の未成熟な段階で銀行経営の資金を民間に依存するのは不可能で、官金預金で補おうとしたのである。前出の命令書第14条の預金は預り金といえども銀行が自己に融通運用することを許されないとしているが、原田論文の指摘のようにこれは表向きのことで、「官金預金の融通」という暗黙の特権によって金融業者がその営業を有利に展開しえたのである(前掲「三井銀行と開拓使」)。
 函館出張店の民間業務は、総精算目録によると、明治9年(7月1日~12月31日)の民間預金は、貸出金などの一般民間業務は前掲表8-2のように、低調なものにすぎない。これは、官側が積極的な貸付改策を実施していたことの結果でもあるわけである。それに三井銀行でも、三井組時代より貸付金の渋滞をおそれ、各地の出張店に貸出業務を原則として禁じてしたことによると思われる。
 それが明治10年代にはいり、三井物産の北海道進出で変わってきた。しかも貸付会所の後退もあり、三井銀行は各府県に多くの支店を持っていたので、次第に利用者が多くなってきた。明治14年1月28日の「函館新聞」に掲載された函館出張店の為替コルレス案内によると、三井銀行本分支店が33店で、そのうち荷為換取扱を行なっているのは、東京・大阪・横浜・神戸・名古屋・半田・下関長崎・四日市・敦賀・仙台・青森・根室・弘前・札幌・小樽であった。また約定銀行としては、第一国立銀行(盛岡)・同上(宮古)・第四国立銀行(新潟)・第一国立銀行(秋田)・同上(本庄)・同上(横手)・第百五十国立銀行(八戸)で、そのうち、第一国立銀行の盛岡、秋田と第百五十国立銀行(八ノ戸)が荷為換を取扱っていた。このように、全国各地にわたって取引が行なわれていたことを示している。しかし、依然として官側の力が強かったので、三井銀行はやはり開拓使との結合に意を用いた(前掲「三井銀行と開拓使」、『三井銀行八十年史』)。