奥羽・函館戦争で政府、諸藩の軍用物資や食糧の輸送で商会の所属船が活躍したが、戦争が終わると海運事業は競争が激しくなり、経営が困難になってきた。それに不良債権も多くかかえ、これまでのままの営業方針では経営が悪化すると予想されたので、新しく清国向けの貿易商社の設立を計画した。その資本は自己の財力では確保できないところから、証券を発行しようとした。この証券の印刷をドイツ領事ベール(Bair)を通じてフランクフルト(ドイツ)のドンドルフ・ナウマン社へ注文した。実はこれらの事情は次に述べる事柄から次第に明らかになってきたのである。
明治5(1872)年に日本政府も新紙幣(ゼルマン紙幣)の製作を同じ所へ注文していた。その製造監督のため外務省3等書記官本間清雄が滞在中であった。そのとき第2回の注文の新紙幣製造工程を終了したのは明治7年で本間は製品の日本への発送事務に忙殺されていた。ブラキストンが注文した証券が印刷されているのを見て、明治7年9月17日付で大隈大蔵卿と吉田大蔵少輔宛に事情を次のように報告してきた。それによると、ブラクマという者が銀行証券のような物の印刷を注文しているということである。
箱館に於て未詳ブラクマとか申仁左の図の如き銀行証券の如き物発行の為めドンドルフナウマン社え押印注文相成候由猶委敷は探索の上可申上候へとも不取敢申上候右は我紙幣とは異り候へ共詰り人物を害し候奸商の所為と存候勿論右社官許を得候て発行なれは子細無之存候何れにも怪異なることに存候故先つ右丈け當便に申上候 已上 七年九月十七日 本間清雄 大隈大蔵卿殿吉田大蔵少輔殿 (『日本外交文書』第八巻、以下『日外』と略す) |