また註、附記として次にように述べられている。
註一、右文書中「左ノ図ノ如キヲ相示候」云トアル「ブレーキストン」社証券雛形ハ省略ス同雛形ハ拾円、壱円ノ二種アリ券面ニハ金高、番号及「此証券ヲ當社ニ差出シ促ス時ハ何時ニテモ引換相払可申候也」「箱館ブレキストン社」ノ語並ニ夫等ノ英訳文ノ外Japanese Currency.ノ語印刷シアリ 二、帝国紙幣ノ印刷ニ当リタル独国「ドントルフ、ノーマン」社提出ノ誓約書写参考ノ為左ニ附記ス (附記) 「本文ハ日本政府ト「約定書ノ写ノ趣候也」 記 ドンドルフノーマン社中ニ於テ此約定ノ期日ヨリ三拾年ノ間ハ日本政府ノ為メニ既ニ納シ紙幣及ヒ此後納ムヘキ紙幣ト商業取引キノ際誤認スベキ如ク模様外形等ニ於テ類似セル紙幣ヲ上梓製造仕間敷又タ他ノ社中ヲシテ上梓製造スルニ到ラシメ間敷万一此約定違背ノ事ヨリ日本政府ノ御迷惑出来仕候節ハ右社中ニ於テ必ス埒明ケ可申事ニ承諾仕候也 (同前) |
ブラキストン証券
以上のように、証券の具体的な内容が現物の模写を通じて、明白に理解されるようになった。そのため、その後の対応策には大蔵省としても気をつかわざるをえなかった。
これに対し大蔵卿は本間書記官へ、いずれは調査のうえ処分するつもりなので、フランクフルトで製造禁止するなどのことは、大蔵省が申し渡すまで見合せるようにという返書を発送している(『北海道金融史』)。この中で「製造禁止……」あるいは、7年9月21日の本間書記官よりの報告に「条約ノ趣モ有之」あるいは「右証券ハ我紙幣ニ髪髴ダル模様ニモ無之候間直接製造禁止候訳ニモ至リ兼……」とあるのは、日本政府より紙幣の製造をドンドルフ・ナウマン社へ注文した際に、前記の註1と附記にあるようにこの約定の期日より向う30年間は、日本政府の為に既に納めた紙幣およびこのあと納めなければならない紙幣と誤認されるような模様、外形の類似した紙幣を上梓製造しないという条項があったからである。
在フランクフルト外務省本間書記官の通報で大蔵省から調査を依頼された開拓使は、大蔵省の通知を受けるとすぐ「ブラキストン社」の事情を調査して、甲乙2通の回答書(『日外』第8巻、「開公」5820)を送った。その内容は、ブラキストンは函館港に蒸気船2隻を備え置き、函館・横浜・上海間を航海し、海産物の貿易を盛んにするための資金を集めるために証券を発行するものであった。何人に限らず加入の場合は、金100円を差し出すと12か月限りの引換への証券120円、すなわち2割の利息を前渡しするものであった。この証券を受けとった者は、どこに引当として使用しても差し支えなかった。もし金融に差支えがあった時は、証券を差出せば正金100円を渡し、損失を生じた時は、ブラキストンが引き受ける、というものであった。ブラキストンは商社の設立、証券発行のことも、函館の商人、取引先の清国商人にも相談して了解をえているので、資金が揃えば蒸気船を購入して営業を始めることになっている、ということであった。
開拓使よりの調査書を入手した大蔵卿は8年2月8日第63号で外務卿に対して、国内では紙幣の発行は許可していないので、さきに許可した第二国立銀行の洋銀券とはその趣意が全く異なるから、外務省が差し支えなければ、断乎として差し止めると問い合わせた(『日外』第8巻)。
8年3月(日付不詳)寺島外務卿より大隈大蔵卿あてに回答してきた外務省の見解としては、開拓使から大蔵省への報告書によれば、紙幣でも銀行証券でもなく、郵船会社の資本を集めるために発行した株切手である。また日本紙幣、日本銀行証券にも類似していないので、日本政府としてはこれを差し止める特権はない。すなわち横浜の上海香港銀行で発行している洋銀券は、これと同類であるが、もしこれを禁止する特権があれば、まず上海香港銀行の洋銀券を差し止めなければ、ブラキストンの証券を差し止めるわけにはいかないということであった(同前)。
これに対して大蔵省は、外国人に政府の許可なくして国内で紙幣証券を発行することは、わが国権を侵すことになり、ことは頗る重大であって容易に見のがすわけにはいかないという意見であった。これはブラキストンの証券を株券または小切手か、あるいは紙幣と見るかの解釈の相違であった(前掲『蝦夷地の中の日本』、『北海道金融史』)。
なかでも紙幣頭得能良介は、熱心に「ブラキストン証券」を禁止するよう論じ、当時大蔵省御雇ジョージ・ウイリアムス(George Burchell Williams)も政府以外の発行の類似証券を禁止するのは当然の権利であり、確実な法令を制定したならば在留外国人はその法に従うものであると、政府の法令の不備について指摘している。また国際法より王権の作用としてこれを禁止するのは可能で、条約によることを必要としないとも述べている。そこで大蔵省は紙幣寮官員大属海老原某を外務省に行かせ、本間書記官から送ってきた模写図について、券面に日本字を用いて貨幣単位の金円を記載したのは、万国公法として許されないことであると、外務省官吏と論議させた結果、外務省もついに大蔵省の意見に同意することになった。同年5月23日付でイギリス公使に、ブラキストン社中より別紙図のような証券を発行することが事実であるならば許し難いので、調査してもらいたいと照会した。
イギリス公使からは、ブラキストン社の証券についてはなんらの知らせも受けていないので、函館在留のイギリス領事に調査を命じたとの回答があった(『日外』第8巻)。それから数日後、開拓使よりドイツからブラキストン社へ到着した証券中、1円札および10銭札を各1枚そえた8年6月7日付の書面が大蔵省へ送られてきた。その書面には「函館支庁於テ夫々探偵致候処今回壱円及拾銭之分到着之趣ニ付同社ヘ立入候者ヲ以テ内密為買取差越候最モ未タ通用候義ニハ無之趣候ニ候得共他日融通等ニ相用候様ニテハ弊害不少候間右予防之方法御省於テ御見込モ可有之ニ付詳細御申越之有度紙幣弐葉相添此段及御照会候也」とあった(「開公」5807)。
大蔵省は証拠となる証券を入手したので、そのうちの1円券を外務省に届け、発行禁止の処置をとるよう申し入れた。外務省はイギリス公使に8年6月14日付で封入した証券のように発行の証跡がはっきりしたので、発行禁止の命令を下すよう申し入れた(『日外』第8巻)。
さらに大蔵省は、証券禁止布告案に10錢券を添えて、太政官へ証券に関する処置の伺書を送った。