開港後、まもなくわが国に氷が輸入されはじめた。当初氷は横浜に居留する外国人の飲料品や食肉保存用として利用され、また後には来日した外国人医師が治療用に利用する場合もあった。
ところで、この氷は主にアメリカのボストン周辺の天然産のものが輸入されていたが、ボストンから横浜までの長時間の航海輸送のために目減りが激しく氷の価格は非常に高価であった。それを横浜の居留地で氷販売に当たっていた外国居留商人が市場を独占して多額の利益を得ていたという。
こうした状況下にあって、国内での採氷業に注目したのが愛知出身の中川嘉兵衛であった。彼は京都で漢学を学んだ後に横浜開港を知って同地に赴き、ここで英国公使館の給仕に採用され、間もなく同国公使の信任を得て英国横浜駐在兵団の食糧調達を請負うまでになり、あわせて牛乳販売も行ったりして資本を得た。慶応三(1867)年3月の「万国新聞紙」(『幕末明治新聞全集』)には「パンビスケットボットル右品物私店ニ御座候間、多少ニ寄らす御求被成下度奉願候 横浜元町一丁目 中川屋嘉兵衛」と広告が掲載されており、横浜で輸入品を扱う商人として活躍していたことがうかがえる。
この嘉兵衛に一大転機をもたらしたのはヘボン(Hepburn,J.C.)やシモンズ(Shmmons,D.B.)との出会いにあった。ヘボンは安政6(1859)年に米国宣教師として来日し、横浜を中心に伝道するかたわら医療活動にもあたった。ヘボンの知遇を得た嘉兵衛は新しい知識を得て新規事業を思いたった。特にヘボン、シモンズから衛生や食品に関する話を聞くなかで氷がこれから新たな需要を産みだすことを知った(「中川嘉兵衛と其採氷事業」)。
中川がヘボンたちの教唆によっていつから採氷業に取り組んだのか、それを明らかにする同時代資料はないが、明治6年に中川が開拓使へ提出した願書によれば、元治元(1864)年に横浜で氷室建設の許可を受け、富士の裾野で採氷に着手したのを手始めに以後連年のように「甲斐ノ国カジカ沢或ハ秩父ノ山陰或ハ赤城山ノ下流或ハ日光或ハ釜石宮古或ハ青森秋田」などで採氷して横浜へ運送したが、いずれも品質の面でボストン氷の敵ではなく失敗に帰し、さらに横浜発行の英字新聞に「日本人嘉兵衛始テ氷業ヲ開キ年々国内各所ノ氷ヲ発売スト雖モ、氷質シマリ無ク又透明ナラズト嘲笑シ偏ク万国ニ報告」(明治6年「東京上局文移録」)されるような状況にあった。
ちなみに前の願書のなかで述べられている青森での試みについては同地の廻船問屋である滝屋善五郎の「家内通観」(『青森市史』7)に詳しい。それによれば明治2年12月23日に中川嘉兵衛の手代である源次郎および虎之助の両名が、中川と河津祐邦(元箱館奉行組頭、後に外国奉行、維新後は在野)の書状を持参して滝屋家を訪れている。河津は中川と結社してこの事業に取り組んでいたが、青森県の大道寺権参事と河津は旧幕以来の関係があり、大道寺が上京した際に河津はその事業の有益さを伝え、青森での取り組みを依頼していたものであった。中川の手代は青森市中において堤川を最適地としたので、滝屋は人夫を配して約3500枚の氷を切り出し函館を経由する横浜行きの便船を待った。ところがこの船便が青森に来ることなく翌年3月に至り暖気のためもあり廃棄された。ところで結社組織には後述するように岸田吟香も含まれていた。岸田はヘボンの門下生の1人であり、その縁で中川との共同事業をしたのである。また彼はのちにはジャーナリスト、実業家として活躍した。