醸造

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 旧幕時代には、函館は米作のない土地ゆえ、酒造家は2軒と制限(「函館商業習慣取調書」『続市史資料集』第4号)されていた。明治3年2月の農政掛の触書(明治2~5年「諸用留」田中家文書)によると、「北海道義ハ寒冷ニテ酒ハ必用嗜好ノ候処、従来酒造家ナク内地ヨリ輸入ノ酒仰ギ候処、追々開拓人員繁殖ニ付テハ是非酒造ノ家無之テハ不相叶」であるから、五稜郭中の不用官舎(水掛至テ宜敷場所)を酒造希望者に貸渡してもよいとしている。この3年の酒造株願人19人の内容(新田家文書「御用日記」)を合計すると、清酒540石、濁酒620石、醤油270石、糀120石であり、清酒の造込石数は最小50石、最大で100石にすぎない。明治前期の営業者で明治38年まで酒造業を継続しているのは、慶応3(1867)年創業の岡田勇作と明治13年創業の東出長四郎の2軒であった。
 このような状況で明治10年代には、2万石から3万石の清酒が移入され、うち半数強が各地へ分輸されたようであるが、17年6月に末広町の石黒源吾ほか2名から共同酒造会社設立願が函館県令宛に提出されている。その会社規則によると、資本金は当分5000円、1期中1000石以上の清酒醸造を目論んでいる。緒言を次に引用する。
 
当地酒造家ノ弊ヲ概言セントスルニ凡テ当地醸造家タルモノハ年々十月頃ヨリ翌年三月迄ノ販売ヲ目的トスルカ如キニシテ……如何トナレハ当地ノ形勢タルヤ秋冬ノ季ニ至リ海路風潮常ニ穏カナラサル為メニ十一、二月ノ頃ヨリ翌年三月迄ハ酒類最モ貴称ヲ占ムルニ至レハ年々不可免ノ勢ナレハ皆之レヲ苟偸シテ酒質ノ良粗ヲ不顧暫時販売ノ方ヲ勉ムルノミニシテ三、四月ノ時ニ至リ風潮穏順ニシテ大小ノ帆船輻輳スルノ時ニ至リ輸入ノ新酒頗ル低価ニシテ且美ナレハ各地ノ漁場マテ輸走スルノ時ニ至リ是レマテノ酒造家ハ寂トシテ廃業シタルモノノ如ク然リシハ必竟製造ノ酒質ヲ不顧シテ一時ノ利ヲ貧ラントスルノ弊ヨリ生ス……

 
 表9-9 酒造業の状況
種別
年次
戸数
産出石数
産出価
 
清酒
 
16年
18年
 
21
14

741
1,254

 
16,407
濁酒
16年
18年
15
15
106
167
 
1,514
焼酎
16年
18年
3
9
5
47
 
1,545
麦酒
16年
18年
1
1
40
17
 
645

 明治16年『函館県統計書』
 河野文庫・明治19年「統計書類」より作成
 各年10月より9月まで
 
 これが当時の酒造家の経営状態であった。
 この共同酒造会社はいつまで営業を続けたかは定かでない。16年と18年の酒類製造業の状況は表9-9の通りである。清酒では1戸当り平均100石の製出にすぎず、移入品に圧倒され、年々軒数が減少している。なお、前述の石黒源吾は15年5月に、西洋模造酒ともいわれた麦酒を製造発売している。
 次に醤油をみると、原料は大豆を除く米・塩・小麦がすべて管外産であって、業者も少なく明治10年より13年までの『函館支庁一覧概表』では、大黒町の高岡正太郎、大町の益村六兵衛が100石程度、13年に亀田村の佐野専左衛門が1000石を上回る製造高となっている。売捌高で1万円をこえたと推定される印佐野専左衛門は明治5年に亀田村で醤油醸造業を開始している。同地は低湿地なので溝渠を通じ土石を積み、家屋および醸造所数棟を建築した費用は3万円といわれるが、この資本は佐野が静内、浦河、様似昆布を産する場所の請負人であったことにより、維新後、昆布価格の騰貴による利益、請負場所が直捌になったことによる交付金の取得で調達(「北海道巡回紀行」『松前町史』史料編第4巻)されたものである。8年には上海への輸出を目論んだり、10年には東京の内国博覧会に出品して受賞するが、13年では区内で杉浦、藤野に次ぐ第3位の富豪となっている。19年には商標登録願を農商務省へ提出し、また支店を豊川町に設置し、醤油にならんで味噌の販売もしている。佐野の醸造品は函館区内はもとより道内にも大きな販路を有していた。この頃の移入醤油は越後、東京産等で、2、3000石から5000石内外が入っている。
 味噌は津軽、越後産等が10万~30万貫移入されているが、市中では100石未満の業者が2、3みえる程度で醤油のような規模はみあたらない。